ベトナム個人旅行(自転車)2005年

2005-01-02 記
トピックベトナム

ハノイ到着、旧市街、ホアンキエム湖とゴックソン祠堂

2004-12-24

ベトナムへ

今回は、ベトナムに行くことにしました。

ベトナムにしたのは、近場でお手ごろだったということと、前回のタイ南部サイクリングの続きとして、割と近い地域でもあったからだ。


だが、実際、”水曜どうでしょう”でベトナム道路の交通マナーの悪さを見ていた為に、少し躊躇もした。 だが、このくらいのハードルは越えなくてどうする、ということで、今回の工程をセッティングしたのだ。

本当はハノイ(ベトナム北部)からホーチミン(ベトナム南部)まで全部行きたかったのだが、ハノイ・ホーチミン間は1800km程あるとのことなので、今回は南半分、フエからホーチミンまでのコースを取ることにしました。大体900km程の工程を見込んでいる。

フエは宮廷跡が立派らしく、ホーチミンまでの道中にはその他見所もたくさんあるようだ。 だが、期待するほどでもないという話も聞くが・・・。


今回用意した装備としては、ガイドブックとしてロンリープラネットの日本語版と、ベトナムの地図。それに、自転車装備一式を用意した。 ロンリープラネットは情報多彩で、地球の歩き方が宣伝パンフレットに見えてきてしまうほどの格差がある。 前までは英語版のみだったのだが、今回、本屋に立ち寄ってみたら日本語版が置いてあったので購入したのだ。 地球の歩き方を買うつもりはなく、現地の情報に頼るつもりでいたので心強い味方が出来た気分だ。

海外サイクリングは2回目なので、前回のタイ南部サイクリングに比べて随分と荷物が減った。前回の預け入れ荷物が27kgだったところが、今回は25.5kgになっていた。

飛行機は、今回、キャセイパシフィックでベトナム往復、ベトナム国内をハノイからフエまで片道利用した。

行きが”成田->香港->ハノイ->フエ”で、帰りが”ホーチミン->香港->成田”の旅程だ。

キャセイパシフィックの成田->香港便は、チケット屋が急かした割には空いていたので拍子抜け。 もう少し他のキャンセル待ちを様子見るべきだったとも思ってみる。 ただ、帰りの便はさすがに混んでいるらしいので、微妙なところではあったのだが。

今回、少し気を使ってみた点として、自転車の入ったバッグを預ける時に肩ひもを外に出さず、中に閉まったまま預けた。 前回、帰ってくる時に肩ひもの根元が引きちぎられていて、危険だと思ったからだ。 前回までは丈夫な袋を使っており、紐がバッグの布に付いていた為そのような被害で済んだのだが、今回新たに新調したバッグは紐を自転車のフレームに結ぶタイプな為、被害が甚大になる恐れがあったからだ。

それと、今まで何度か空港宅急便を使っていたのだが、今回は送付受付をするのが遅すぎて遅れなかった為、久々に空港まで自転車を持ち込んだ。 その際、今までは肩にかけて持ち上げて運んでいたところを、キャリアを使って持ち運ぶようにしました。 これがまた、とてつもなく快適で・・・。 次からもこのスタイルになりそう。 旅先で荷物になるけど、到着の時に誰かにあげてしまって旅の間は身軽で過ごし、帰りの日に新調をした上で日本まで運び、そのキャリアで家に帰る。そして、そのキャリアを次の旅行に使う、というスタイルも悪くないかな、と思う今日この頃。

機内はとても快適で、少しお酒も入ってほろ酔い気分。 さて、今回の旅はどうなるかな。


機内でロンリープラネットを読んでいたら、とても印象的な話を見つけた。

体の不自由な孤児がやって来て、物乞いをしてもお金をあげてはいけない。大抵、近くで親や親分が見張っていて、あげたお金はギャンブルや麻薬に消費されてしまうことが多いから。親分は、老人や子供と言った弱い立場の人々を簡単に操ることができる 本当の孤児はいる。 だが、孤児にお金をあげるのもどうだろうか。 孤児はお金の使い方をしらない。 大金を持ったことがない。 お金で直る病気を不憫に思った旅行者がお金を渡したが、その人は麻薬に走って中毒になってしまった、という話もある。 一つの方法としては、孤児を救援しているNGOを探し、そこに寄付することだ。 もしどうしても孤児に何かしてあげたいと思うのならば、食べ物を直接あげることだ。(中略)

もしその場で何かをしたいなら、お金をあげたり、売ることのできるものをあげたりするのは避けよう。(中略)もし直接何かをあげたいなら、お金ではなく食べ物をあげよう。市場や露店に連れて行って、栄養のある食事か果物を買ってあげよう。その人だけのためになり、害にならないものを。それがたとえ歯によくないものであったとしてもお金よりはいいと、旅行者の一人は話す。
私は、百戦錬磨の子供の物乞いの眼に浮かんだ輝きをいつまでも忘れない。それは私が自分の食べていたのと同じような甘いケーキを提供した時だった。(ゴードン・ボールダーストーン)
ロンリープラネット ベトナム P88より

ハノイ到着、そして旧市街

香港で乗り継ぎ、いよいよベトナムのハノイへとやって来た。 古い旅行記を読んだところでは”とんでもなくぼろぼろの施設”ということであったが、他で読んだ”今は近代的な施設に生まれ変わっている”の言葉の通り、綺麗で世界の標準的な空港がそこにはあった。

バゲージクレーム(荷物受け取り所)では荷物が小出しに出ているような感じで、なかなか私の荷物が出てこなかった。 そして、しばらく後にようやく荷物を受け取り、国内線のチェックインへ。 これがまた、どこかよくわからない・・・。 ようやくカウンターを見つけたところ、なんと、もうチェックインは締め切っているとのこと。 なんと・・・・。 荷物を見て、”この荷物は大きい”という事を言われたので、荷物が少なければどうにかなったかもしれないが、頼み込んでもだめなものはだめということで、そのおじさんがついに、航空会社のカウンターまで案内してくれた。

そこで、チケットを翌日の早朝の便に切り替えてもらった。 朝6時半とはちょっと早いけど、良しとした。そして、受付を済ませた後、そのカウンターのおねえさんにエアポートホテルの場所をも聞いた。

エアポートホテルは空港から1kmほどのところにあるとのことなので、まずは両替を済ませようと思ってきょろきょろしていたら、なんと、噂に聞く”詐欺師”が早速現れた。実際にはそれに最後まで付き合わなかったのでどうかわからないが、うさんくさいことは確かだ。 従業員のような格好をしているが、何者だろう?

その人いわく、両替なら”あそこ”で出来るという。その先には郵便カウンターが・・・。 私は銀行を探しているのでそう伝えても、”いくら換えるんだ?”と何度も聞いてくる。 ”銀行は数キロ先だ。この時間は空いているかなあ”とか言っているところからしても、詐欺師確定である。 この時間に国際空港の銀行カウンターが開いていない訳がない。 いや、ベトナムならば有り得るか? 実際にこの目で閉まっているところを確認するまではこいつの前でお金を出すわけにはいかない。

そこで、私が執拗に銀行の場所を聞いていたら、”向こうだ”とだけ彼は答えた。その先の同じフロアには銀行がないことを確認済なので、なんともうさんくさかった。 私が歩き出すと、彼も後をつけてくる。

私は、他の人に聞こうと思って先ほどのカウンターで銀行の場所を聞いてみた。すると、下のフロアにあるという。 私が下のフロアに移動するまでは彼が付きまとっていたが、下のフロアに移動すると、彼の姿は消えていた。

それにしても、噂には聞いていたが空港ですらこれだとは、先が思いやられると思った。

いよいよ両替を済ませ、大量のベトナム通貨”ドン”を入手した。 1円に対して149ドン。 掲示板で見ていた1円130ドン計算よりは遥かに良いレートみたいだ。 この国の通貨はインフレしていると言うので、この価値がどこまで安定するかは微妙であるようだが。

両替後、さてどうしようかと思って両替のおねえさんにエアポートホテルの場所と大体の値段、それに、そこまでのタクシーの値段を再確認した。 すると、どこから嗅ぎつけたのか、タクシーの運転手がそこに立っていた・・・。 まあいいやと思い、その運転手の方へ。 値段も先ほどの値段でOKのようだ。

そして、タクシーに乗り込み、さて出発。 ・・・と思いきや、少し走ったところで止まって、”エアポートホテルは高いし、今夜にハノイの町を見たくはないか?”と言ってきた。市街までは180,000ドン(約1,300円)のようだ。ロンリープラネットによると市街までは大体10ドルとのことなのでタクシー代は”妥当”であるという判断をし、ホテルは20ドルということなのでまあいいかと思ってそこに決めた。 朝、その運転手が迎えに来てくれるらしい。朝5時なのに・・・。ご苦労様です。

ここで、持参した電卓を使って交渉をしたのだが、タクシーの中など、暗いところや夜ではほとんど使えないことが判明。 確かめて来るべきだったと後悔するが、しょうがない。 彼が紙を持っていたので値段は紙に書いて交渉した。


少し走り出して、いきなりハイウェイから抜けて細い道に入ったので、”なんと、いきなり追い剥ぎか?”と思ったが、前に座っている2人は適当なことを喋りあっているようなので、騙すような違和感はない。

次第に、賑やかになってきたので少しほっとする。 それにしても、30分で着くと言っていたのに45分くらいかかった。 おいおい。 いいかげんだなあ、と思う。


そして、ホテル。 タクシーの代金を渡すと、なんと、”おつりは明日でいいか?”と言ってくる。 これまた意味が分からず、もしかしたら詐欺の一種かとも思ったので、”今くれ”と私は言った。 すると、”むう”という表情をしておつりをくれた。 ベトナム人はよくわからない。

そして、ホテルのチェックインを行おうとすると、これまた面白いことが起こった。 こちらは、あまりにもベタ過ぎて何も言うことができない。

ホテルの手続きをするにあたって、部屋の確認をする為に一度部屋に行ったのだが、そこで、”日本人か? 日本の円は持っているか? 日本の円は見たことがないんだよ。”と言ってきた。 ”どこかで聞いた話だなあ・・・。見たことないわけないだろう?うさんくさいなあ。” と思いつつ、しばらく”そんなに持っていないし、奥に閉まってある”というような事をこちらが言っていたら、彼は更に、”私は世界中のお金を集めてるんだ!”とか何とか言って、財布の中から各国の紙幣を取り出してきた。 この時点で詐欺師確定! うさんくさいのと、あまりにもベタな詐欺で、誰が騙されるのだろう・・・ と思うくらい微妙な詐欺である。

ベトナムは詐欺師が多いとは聞いたが、初日から連続して詐欺師にばかり出会うと、今まで詐欺師大嫌いだったことすら忘れ、”こんなベタで面白い詐欺師なら、適当に付き合ってみるのも面白い”と、不謹慎ながら少し思ってしまった。 友人が”詐欺師が来るとニヤリとしてしまう”というのも、この状況を見ると頷けるかもしれない。

チェックインを済ませ、お金を支払った時、私から何も取れなかったからなのか、担当の彼の顔があまり優れなかった。


そして、荷物を少しだけ持ち、ハノイの旧市街の散策へ。

どこに行こうか迷ったが、とりあえず地図で目に付く場所として、ホアンキエム(Hoan Kiem Lake)湖というところに行って見ることに。

今日は、クリスマスだからなのかベトナム60周年だからなのか、街中がとても賑やかだ。 タクシーの中でも、今日はお祭りをやっているので今日来てラッキーだったな、というようなことを言われた。

賑やかなのはいいが・・・・。 それにしても、バイクが危険だ。 右と左と後ろと前と、全て見ないといけない。 疲れる・・・・。

絶え間ないバイクの流れ。

前後左右から迫ってくる・・・。

街中を歩いていて気になったのが、食べ物屋が割と少ないかな? という点。 タイに比べて、若干少なめなような? それとも、歩いているから、気のせいかな?

しばらく歩いた後、電卓と日焼け止めを購入。 電卓は、1件目では18ドルのものしかなかったのだが、2件目で4ドルのものを発見。ドンにすると60,000ドンらしい。試しに値切り交渉をしてみたが、受け付けてもらえず。 でも、そんなに高いわけでもないので購入した。電池とソーラーパワーのデュアルパワーのようだ。 これで、夜でも快適になった。

ホアンキエム(Hoan Kiem Lake)湖に近づくと、ちょっとしたおしゃれな建物がいくつも見えてきた。

ホアンキエム(Hoan Kiem Lake)湖の中は、ちょっとした島が浮かんでいる。


橋がかかっており、島の中には宗教的な建物があるようにも見える。

ハノイ旧市街・
ホアンキエム(Hoan Kiem Lake)湖とゴックソン祠堂(玉山祠堂)

ホアンキエム(Hoan Kiem Lake)湖の周囲をぶらぶらと歩く。

周囲の人影が妙に気になり、写真も、袋から出しては取り、すぐに袋に入れる、ということを繰り返した。

妙な雰囲気だ。

危険な感じはしないのだが、”笑顔の詐欺師”のような妙な違和感があり、いつスリをされても不思議ではない感じだ。 ここでは、笑顔のまま悪気もなく、危険な香りもせず、当然のごとく物を取られる雰囲気がある。

そして、湖に浮かんでいる島の方へと行ってみることに。

何やら、面白い入り口が見える。

島への入り口。

島まで渡ることができないようで、門の間から覗き見た。


中は、それなりに立派な作りになっているようだ。

ゴックソン祠堂(玉山祠堂)は、ロンリープラネットによると以下のようにあった。

この寺は、儒学者のヴァン・スオンと13世紀にモンゴル軍を撃退した陳興道(チャン・フンダオ)将軍と医聖と崇められているラー・トーの三聖人に奉げられたものだ。

そして、池を離れる。

ホアンキエム(Hoan Kiem Lake)湖は、ロンリープラネットによると以下のようにある。

伝説によると、15世紀半ば、神から魔法の剣を授かった黎利(レ・ロイ)帝(黎太祖<レ・タイトー>とも呼ばれている)は、この剣を使ってベトナムから中国軍を駆除した。その戦いが終わったある日、船遊びをしていた黎太祖は、湖面を泳いでいる大きな金色のカメに出会う。カメは彼の剣を奪い取り、湖深く消えてしまった。カメが剣をその神聖なる持ち主のもとへ返したということで、その時から湖はホアンキエム湖 Ho Hoan Kiem (還剣の湖)として知られるようになった。
 湖の真ん中の小さな島にぽつんと建っているタップ・ズア Thap Rua (カメの塔)は、塔の先端に赤い星がついていて、しばしばハノイ市の象徴として使われる。毎朝6:00頃には、この湖の周辺で朝の体操、ジョギング、バドミントンなどをする地元の人々の姿が見られる。

ハノイ旧市街散策

池から離れ、更にぶらぶらと散策する。

散策しつつ、宿の場所を確認しておこうと思ったが、何と、場所がわからなくなった。(苦笑) 名刺の裏に地図があるが、どうも微妙で分かりづらい。

月明かりの下、皆が楽しんでいる。

歩いていると、ちょっとした市場を見つけた。

この周囲には食べ物が沢山売っていた。

お祭りではない時はこの周囲が賑わっているのかな???

人民軍の創立60周年を示す垂れ幕。


そうか、このお祭りだったのか、と思う。


至る所に人民軍の創立60周年を示す横断幕がある。


屋台が沢山出ていたが、食べ物がやはり少ない・・・。

その後、まず簡単に食事をした。

そして、もうちょっと宿を探しても見つからなければ試しにシクロに乗ってみようと決意して、もうちょっとだけ歩き出す。 シクロは”絶対乗ってはいけない”と言われていたのだが、見たところ、走りながらでも何とか立ち上がることが出来そうなのでいざとなったら逃げられると思ったからだ。

これが、悪名高い”シクロ”。


ベトナムにおける格言
「シクロには絶対乗ってはいけない。」

でも、シクロに乗るという危険な行為はする必要なく、宿に辿り着くことが出来た。 途中、迷ったおかげで市場にも寄ることが出来たし、それを見たおかげで、今日街中で繰り広げられているものが日常のものではなくお祭りの屋台であるということもおぼろげながらに分かった。


ホテルに戻ってきたら、カウンターのお兄さんがクリスマス・パーティー(ミニ)に手招きしてくれた。 私は、微妙な予感を感じつつ、席に付いてビールを飲んだ。 他にもう1人旅行者がいたが、他は全て地元の人らしい。 飲んでいるうちに、”ディスコかカラオケに行こうよ”と誘ってきたのだが、もう脱力。 彼のような詐欺師に付き合う元気も興味もありません。

目当てはディスコか、或いはカラオケか。 どちらにせよ、高いお金を払わせるつもりなのでしょう。 ベトナムの詐欺師に付き合っていたらきりがないので、明日が早いことを理由に、睡眠薬を飲まされる前にそこを退散した。

補足:日本以外で言うところの”カラオケ”は、綺麗なお姉さんと一緒に遊ぶ所。


そして、早々に眠り、明日に備えた・・・。

フエ(Hue) 王宮跡、ティエンム寺

2004-12-25

フエ(Hue)空港到着

朝、4時半に起きて支度をし、5時に宿を出た。 宿の前で待っているタクシーに乗せてもらったが、どうも、先日の男が見当たらない。 やはり、あの時おつりを”明日清算”にしていたらちょろまかされるところだったようだ。 気をつけるに越したことはないと、再確認する。

宿を出て、空港を目指す。 空港には予定通り5時半に着き、チェックインを済ませ、一路、フエへと向かった。

フエへの飛行機は、思いのほか、かなり混んでいた。 そんなこんなでうとうとしながら乗っていると、あっという間に着いてしまった。 夕べの最終便ならばプロペラ機だったのだが、これはジェットだった。 プロペラに乗り損ねた・・・ と思いつつ、田舎の空港に降り立つ。

降りてみると、割と涼しいことに気づく。

そして、空港を出て、駐車場の外れで自転車を組み立て始める私。

・・・・。

どこか壊れているかな? と、ちょっとどきどきではあったが、本体に関して言えば特に問題なく組み立て及び積み込みができた。

 ただ、取り付けた際、サイクルバッグの付け根の部分が少し破れていることに気が付いた。 針と糸が必要だが、まだそれほど致命的でないので、少し応急処置をするだけでそのまま走り出した。
フエ(Hue)の空港にて

組み立てている間も、数人のバイク乗りから話し掛けられたが、無視をしていた。

「向こうから話し掛けて来る人にろくな人はいない。」それはここベトナムでは現実味を帯び過ぎている。

フエの空港。

いざ、走り始める。

少し走り出し、すぐ行ったところで幹線道路に出た。1号線かな?

 そこを、少しハノイ側へと戻る形でフエへと向かった。

それにしても、噂に聞いていたより、ずっと走り易いことに気づく。

周囲の建物。

周囲の景色。

広々とした景色。

教会系の建物も見えた。

遠くまで広がる景色。

 タイよりは走りにくい感じだ。

半車線から2/3車線ほどはバイクと自転車が埋め尽くしている。

何故、タイに比べて走りにくいのかと思ったら、ここベトナムでは自転車がそれなりにいるのに対し、タイはほとんどがバイクである、という差かもしれない。 自分が他の自転車を抜かす手間が、走りにくさに繋がっているように感じた。

フエ(Hue)中心部

そして、フエ(Hue)に近づいて行った。

途中、ちょっとしたマーケットも見かけた。 これこれ、これを見るとアジアに来たな、という気分になるのだ。

通行も混雑してきた。

雰囲気の良い道もある。

さすがは歴史のある町なだけのことはある。

このルートへと行ってみることに。

信号は、主要なところを除いてほとんどない。

ここも、こんなに広い交差点? なのに信号はない。

そして、やがては橋が見えてきた。

この橋を渡ると、城下町の筈だ。

城下町の中を流れている小さな川。

川による船の交通が発達しているようだ。

船がたくさん泊まっている。

そしては城壁を越え、城下町の中心部へと向かう。

フエ(Hue)中心部散策

城壁の周囲には、お堀があった。

日本もベトナムも、このあたりは変わらないのだなあ、と思う。 中国の影響なのか何なのか。

城壁を越えたら、雰囲気が変わった。

町並みが、どこか落ち着いている。

 それにしても、ゆっくりと走っていると、何かと私に話しかけてくる人たちが大勢いる。まるで金の亡者だ。 このような人たちには一定の”感じ”があって、慣れればすぐに見分けが着くので近づかないに越した事は無いが。

少し王宮の周辺道路を回り、ロンリープラネットを見ながらどうしようかと考えていたところ、王宮跡のすぐ横に、とても立地の良いホテルがあることに気づいた。 値段もお手ごろだ。 早速、そこに行ってみることに。 王宮跡にはまだ行っていないが、自転車があると荷物になりそうだったので先に宿に荷物を置いてしまった方が良さそうであると判断した。

宿に辿り着くと、割と立派な施設に驚く。 見た目は高くも思わせるが、これで18ドル。安い。

ロンリープラネットにも評判が良いと書いてある。

支度をした後、一度シャワーを浴びてから王宮へと出かけた。

王宮の入り口はどこかな? と思ってぐるぐると王宮の周囲を回った。

入り口かな? と思ったが、どうも違うようだ?

更に堀の周囲を歩き続ける。

なかなか見つからない。 入れないのかな? と考え始めた頃、食堂を見つけたのでフォー(麺)を食べた。 1万ドン。 安い。

人によっては5000ドンで食べたりもしているようだけれども、具も少しは入っているし、このくらいでしょう? と言うことで特に値段交渉はせず。

食べてみると、これまたおいしい!!! 後に食べた各地のフォーの中でも、ここのフォーはかなり上等の部類に入ると思った。

フォーを食べた後、王宮を再度歩き始めた。 歩けど歩けど、入り口は見つからない。

 そんな私に、シクロとバイクの運転手が”乗らないか、乗らないか”と常に話し掛けて来る。 全く、うるさい。 顔に”悪人です”って書いてあるような人が多いシクロバイクに好き好んで乗りたいとは思わない。

堀の向こうに見える建物。


入り口はどこだ・・・。

フエ(Hue)の王宮跡

堀の周囲を、歩く歩く・・・。

裏門らしき入り口はたくさんあった。


正門はどこだ・・・。

やがて、雰囲気が変わってきた。

道も綺麗になり、”そろそろ”という雰囲気がある。

周囲はバイクがひっきりなしに通っている。

声もよくかけられる・・・。

そして、ほぼ3/4周したところでようやく入り口を発見することに。

ここが入り口。

中へは入場料を払って入る。 さすがに、入場料はぼったくっていないようだ。 ガイドブック通りの金額を払って中に入る。

道の逆側を見ると、ベトナム国旗が掲げられていた。

そして、中へ。

ここは博物館となっているようだ。

町並みの再現模型。


今もあまり変わっていない気がするが・・・。

衣装なども飾られている。

この宮殿、まず気づくことが、”ぼろい”、そして”色が決め細やかではない”ということ。 前者はアメリカとの戦いでかなり爆撃を受けた事が原因でもあるらしい。 後者は、このあたりの地域はこういう色使いなのかな? と思うしかないような、そんな色。

博物館を後にし、王宮跡の内部を散策する。

がらんとした敷地。

門。

高台から、王宮跡を眺める。

ふと見ると、子供たちが足蹴りをして遊んでいた。

正式な名前はわからないが、砂を布に入れて縛ったような、形としては羽子板の玉のようなものを足で蹴り合っている。

そして、入り口まで戻ってきた。


ここは入場料に対して1時間の閲覧らしいので、しばらくゆっくりしてから外に出た。

フエ(Hue)の象徴、ティエンム寺

やがて、宮殿跡を抜け、さてどうしましょうと思ってガイドブックでお寺などを確認後、そこまで歩いていくか、どうするか、という時にそれは起こった。

案の定、宮殿跡を抜ける時にシクロの勧誘が来たのだが、最初は無視していた。 だが、あまりにもしつこいのと、つい値段を聞いてしまったらティエンム寺まで3kmで3ドルということだったので、まあいいかと思って乗ることにしました。

そして、乗っている間は、”田舎のシクロはぼったくらないのかな?”などという甘いことを考えてしまったりもした。 実際、しっかりとぼったくりしてきたのですが、それは又後ほど。

とりあえず書いておくべきことは、「シクロには絶対乗ってはいけない」ということ。 とある本によると、”ある種の常識”らしい。

シクロからの景色。

川のほとりを、シクロに乗って走って行く。

やがて、フエの代表的建築物のあるティエンム寺までやって来た。

右下に見えるのが、乗ってきたシクロと運転手である。

現在、ティエンム寺は修理中のようだ。


アナログな修理。

そのアナログな修理が、私にはどこか目新しく感じる。

ここからは、大きな大きな川が見える。

船でここに来る事も出来るらしい。

ドライバーいわく”とても高い”らしいが、実際のところ、そんなことはないようだ。

すぐにバレる嘘は、聞いていてとても微妙だ。

そして、お寺の奥へと向かってみる。

ここで、日本人女性(1人)が白人男性3人と一緒に見学をしていた。

この後の工程でもたまに見かけたこの関係、やっぱり日本人女性は海外で白人男に食べられてしまうことが多いのだなあ、と思うようになる。

お寺の中では、仏像が飾られていた。

私がお布施をすると、お寺の人が嬉しそうに笑いかけてくれた。そして、ゴ~ンという鐘(?)を鳴らしてくれた。

私にとってはそこそこのお金でも、こちらの人にとっては大金であることを実感。

そして、ティエンム寺を離れた。

この時点では、不意を突かれてぼったくられるとは思いもせず・・・。

帰って来た後、アート博物館とジェネラル博物館を見に行く事に。

そこに行きたい旨を伝えると、ドライバーの彼はアメリカの話をし出した。

アメリカは最悪で、あれもこれもみんな壊していった、ということのようだ。

後日、世界遺産を見るときも、アメリカ軍の特殊部隊に破壊しつくされた建造物を見ることとなる。

博物館の前でシクロを降り、約束の金額を渡そうとすると、何やら”足りない”と言ってきた。 この金額で騙されてしまったのだが、歩き疲れと不意を突かれたせいで、つい払ってしまった。 まさかの失態。

その後、宿に帰ってきた時、宿のカウンターでいくつかシクロについて聞いてみた。シクロは安全か?それとも危険か? それと、相場はどのくらいか?

いわく、安全だが、外国人は高い料金を言われるようだ。
カウンターにいた2人のうち、1人はそう言ったが、もう1人は何と答えて良いのか言い辛そうにしていた。

相場として、時間あたり200,000ドンらしい。私が払ったのが500,000ドンだから、確かに2時間は拘束したので外国人価格の相場である事は確か。 だが、それならそうと、最初からそう言えば問題のないところを、騙して取ろうとするところが情けないというか何というか。 やられた私も私である。

元々、「シクロは絶対に乗ってはいけない」と本にも念を押して書いてあったのだが、その確認が出来たということは良かったというか何と言うか。 最後の最後で気を抜いてしまったようだ。

ずっとシクロを無視していたのに、本当はどうなんだろう? という好奇心もあったのだが、とてもいい経験が出来て、良かったとも言える。 これで、実体験の元に「シクロは絶対に乗ってはいけない」と明言することが出来るから。

私は、ホテルのカウンターにいた2人に、シクロに対する抗議をした。観光客を騙しても良いのか? 良くないことである、と。 だが、その2人は”ふふん”という表情で無言だった。 そこで私は一つひねり、「私はライターだ。シクロの最悪な物語を書きたいが、このホテルの名前と会話も書いて良いか?」と聞いた。 これに対し、さすがにカウンターのおねえさん方も微妙な表情をしてくれた。

これは、実際に”私一人が書く効果”よりも、観光業界自体に”ぼったくりの与える悪影響”を考えて欲しいと思ったからだ。 日本では当たり前の”観光における相互効果”を、この2人は認識していないのではないだろうか、と思われる一幕であった。

昨日到着して、2日しか居ないのに、なんと大勢のぼったくりと遭遇しただろうか。 出会った人のうちほぼ半分はぼったくりをしようとしてきた人だった。 これは、もう、多すぎる。 日本の旅が何と落ち着けるか、懐かしくも思う。

その後、夕食を食べようと宿を出た。宿を出るとすぐに”バイクは必要ないか?”の言葉がかかってくる。又もやぼったくりの一味である。 無視して道を歩き、少し行った先のレストランへと向かった。 そのレストランは少し高級な感じのある、コース料理を提供しているお店だ。

でも・・・・。 お昼に食べたフォーの方がおいしかった。こっちは15ドル、あっちは10,000ドン(約67円)なのに。 像のお肉を始めて食べたが、微妙な味だった。 ちなみに、この像は野生ではなく農場で作られているとのこと。

宿に戻ると、宿の前にたむろしている少女4人組を発見。何やらこちらをじーっと見ている・・・。 姿を見るに、4人のうち少なくとも2人くらいは売春婦のような感じだ。 ベトナムは幼児売春が盛んだというが、まさかいきなり目の当たりにするとは・・・。 でも、話し掛けられたが私の英語のつたなさのせいか、彼女らがそうであるという確証は掴めなかった。 まあ、いいけど。

その会話の中で、その彼女らのうち1人が、停めてある私の自転車を見て「あの道路向こうの人たちが乗って行っちゃうよ!」って注意してくれたので、部屋の中に入れることに。 チェックインの時は部屋に入れるのを止められたのだが、この際、それは無視だ。

その後、カウンターの横の部屋にマッサージルームがあるのを見つけ、1時間6ドルということなので受けてみることに。 ロンリープラネットを見ても、大体そのくらいの相場のようだ。 腕は・・・・ 悪かった。(苦笑) 痛さが、効いている痛さじゃなくてつねって痛い痛さの方が強い。 外れを引いたようだ。 それに、マッサージ師は女性だったのだが、サービスの最後、パンツの中ほどにまで手を入れて来るありさま。(汗) 言葉もわからないし、マッサージの一環なのかそれともエキストラサービスの合図なのかよくわからなかったが、どうやら後者だったようだ? それにしても、うさんくさいマッサージだった・・・・。 どうやら、お金を弾むと更なるサービスがあったようだ? どこまでもうさんくさい。

ロンリープラネットを見ると、ハノイの項目に以下のようにある。

煩わしい”過剰サービス”をされる心配があるので(実際、大半の場所でされている)、政府はマッサージサービスの認可を厳しく制限している。
[ロンリープラネット ベトナム編 P162]

まさにこれのことかと思い知る。(汗) やってくれるぜ、ベトナム。 ”煩わしい”の言葉、そのものだ。 どうしても旅行者から金を巻き上げたいらしい。 ハノイの項目にあったので、フエにも当てはまるのかな? と思ったら見事に当てはまりました・・・・。 ベトナムできちんとしたサービスを期待してはいけないのかもしれないと、2日目にして少し落ち込んだ。

ここは有名なホテルらしいし、又、マッサージルームから欧米人の女性が出てきたのを見たので、そんなにうさんくさいものだとは思っていなかったのだが、見事やられたようだ。

安価で済むと思っていたこの旅だが、この調子だと割とお金が出て行きそうで心配だ。 今後、引き締めないと。

本日の教訓:

  • 話し掛けて来るベトナム人のうち9割以上は詐欺師である。
  • 旅行者が接するベトナム人のうち少なくとも半数は詐欺師である。
  • ベトナム人の詐欺は社交事例であり、悪びれることはない。

フエ(Hue) ナムザオ(Nam Giao)、同慶帝廟(ドンカイン帝廟)、嗣徳帝廟(トゥドック帝廟)、ハイヴァン峠、そしてダナン(DaNang)

2004-12-26

フエ(Hue)の朝

朝、5時45分頃起きて、6時には朝食を食べに行く。時差が2時間あるので日本時間では7時45分。丁度良い時間だ。

朝、食べに行ったら、丁度支度をしているところだった。 セルフサービス方式でスパゲティとかベーコンのようなもの、それとヨーグルトやベトナム茶などいろいろ食べたが、どうも、あまりおいしくなかった。 先日食べたフォーの方が美味しい・・・。

そして、支度をする。

夕べ泊まった宿から外を見たところ。


道の向こうには、ホテル客目当てのシクロの団体が。

そんなシクロを片目に、出発した。

街中は、バイクやシクロで一杯。

城壁を越え、進んで行く。

街中は、とても混雑。

ふと進んで行くと、このような教会を発見。

ノートルダム大聖堂、というところのようだ。
ノートルダム大聖堂

立派な教会だ。

ロンリープラネットには以下のようにある。

ノートルダム大聖堂 Notre Dame Cathedral

この大聖堂(ゾン・チュア・クーテー Dong Chua Cuu The)はヨーロッパの大聖堂の機能的概観と伝統的なベトナムの要素を組み合わせた、非常にアジア的な尖塔もある見事な現代建築だ。1959~62年の間に建築されたこの巨大な大聖堂は現在、1600人の信徒を抱えている。フランス語を話す司祭2人が毎日5:00と17:00にミサを行っており、日曜は7:00にもミサが開かれる。子供たちとの教義問答の授業もまた日曜の朝に実施されている。

協会の敷地内には、先日のクリスマスの飾りがそこかしこに飾ってあった。

中からは、厳粛なハーモニーが聞こえる。 まさにこの時間、ミサが執り行われているようだ。


教会は、古今東西同じなのだなあ、と思える瞬間だ。

ナムザオ(Nam Giao)と同慶帝廟(Tomb of Dong Khanh, ドンカイン帝廟)

 いくつかこの地方の遺跡を見ておこうと思ったので、帝廟(テイビョウ。天子のみたまや。)を見に行く事に。

近くにあって有名なものとして、嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)を見に行く事にしました。

川を遡る形で、帝廟に向かって行く。

帝廟に行く途中、ふと目の前に何かの記念公園? のような場所が見えた。

ここはどうやら、ナムザオ(Nam Giao)というところらしい。 丁度良いので寄ってみることに。

入り口に自転車を止めようとしたら、中にいた門番の人が”ここに置け”と言ってきたので、そこに止める事に。

ガイドブックによると、無料のようだ。

ここは、ロンリープラネットによると以下のようにある。

ナムザオ(Nam Giao)

この寺(天寺)はかつてベトナム全土で最も重要な宗教施設だった。ここでは3年ごとに皇帝が入念に選んだいけにえを尊厳な天の上帝(トゥオンデー Thuong De)に捧げていた。天を意味する一番高いところにある歩道は丸く、地球を意味する中間のテラスは四角。一番低いところにあるテラスも四角くなっている。
 ベトナムが再統一されたのち、地方政府が南ベトナム政府、アメリカとの戦争で戦死した兵士を悼む尖塔を建設した(その場所にはいけにえの祭壇があった)。フエの人々にはこの尖塔に対し強い反感を持ち、1993年にフエ市人民委員会はこれを取り壊した。ナムザオは再建されることなく粉々になったままである。

これを読むと、とてつもなく切ない気持ちになってくる・・・・。 この気持ちは、地球の歩き方を持ってきても味わう事が出来なかったであろう。

そして、中心部に向かって歩き出す。

階段を登ると・・・、その中心部には何もない・・・?


いや、何かあるぞ。

これ。

この、線香だけが空しく響いていた。


切ない・・・・。 この切なさは何なのだろうか。

私が勝手に思っているだけだろうか?

そして、入り口まで戻ってきた。


自転車に乗って出ようとした時、ふと守衛さんが値段を言ってきた。 どうやら、駐車料らしい。 そんなに大した額でもなかったが。

しかし、ガイドブックには無料と書いてあった筈なので、ガイドブックを開き、記載を確かめ、その場所を指差して、”FREEと書いてあるよ?”と何度も言った。 すると、その守衛さんは笑って了承してくれた。

そして、ナムザオ(Nam Giao)を出て嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)へと向かう。

しばし走り、ここが嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)かな???

という所にやって来た。

だが、それにしてはちょいと寂しい。

散策をしようとすると、牛追いをしていた子供が、私に付いて来る。

んんん? 何だろう。

”ワンダラー”、”ワンダラー”。

ん? 1ドルか?

その少年は、ずっと付いて来た。

何をしてくれる訳でもなく、ずっと”ワンダラー”と喋っている。

それらしき建物はあるが、入れるのかな??

横にまわってみると入り口があったので、中を散策してみることに。


すると、何やらもう1人、老人が現れた。

聞くに、どうやら嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)は少し戻ったところのようだ。

となると、ここは同慶帝廟(Tomb of Dong Khanh, ドンカイン帝廟)であると判断。
ロンリープラネットには以下のようにある。

同慶帝廟(Tomb of Dong Khanh, ドンカイン帝廟)

同慶(Dong Khanh, ドンカイン)帝は嗣徳帝の甥で、養子になった人物。彼の帝位はその前に帝位にあった咸宣帝を捕らえたフランスにより与えられたものだ。予想に違わず従順だった同慶帝は、1885年から3年後に亡くなるまで皇帝の座に就いていた。
 帝廟の中でも最も小さな同慶帝廟(入場料2万2000d)は1889に建設された。地味だがとても美しいこの廟を訪れる人はほとんどいないようだ。街から5kmの嗣徳帝廟から500mほど離れた場所にある。
中を散策する。

ほんと、誰も散策していないようだ。

散策をしている間も、少年が後ろで”ワンダラー、ワンダラー”とずっと喋っている。

説明書きもあるので、一応、観光客向けではあるようだ。

ずっと少年は付いて来る。

”貴方はガイドですか?”と聞くと”イエス”と答える。 だが、何かを説明してくれる訳でもない・・・。

凝った彫り物。


ただ、少々くたびれている。

裏は、今にも崩れ出しそう。

そして、そこを出た。

ただ、立ち入って何も払わないのも何だと思い、入場料代わりとして少年に500ドンを渡した。

自転車まで歩いていると、老人が子供に”いくらか?”と聞いて、それに子供が答えているのが見えた。 老人は、金額を知って”そんなもんか”という表情をしているように見えた。 老人と少年、微妙な風景だ・・・。 少年はまだずっと”ワンダラー、ワンダラー”と叫び続けている。

そして、いよいよ自転車で走り出し、その場を離れた。 ずっと後を付いて来た子供も、どうやら諦めたようだった。

嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)

そして、いよいよ嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)にたどり着いた。

ここは入り口の門。

帝廟(テイビョウ)とは天子のみたまや、つまりお墓のことだから、トゥドック(Tu Doc, 嗣徳)のお墓、ということになる。

自転車は、目の前の売店の横に停めさせてもらった。

お店のおばさんは”お金はいらないよ”と最初言っていたが、お金を払った上で預かってもらいたかったので、”いくらですか?”と何度も聞いたら値段を言ってくれた。 その値段でOKだったので、自転車を置いて中に入ることに。

説明書き。

世界大百科事典(平凡社)によるとトゥドゥック(Tu Doc)(嗣徳)について以下のようにある。

トゥドゥック(Tu Doc)(嗣徳) 1830-83

 ベトナムのグエン(阮)朝第4代皇帝。在位1848‐83年。姓名はグエン・フオック・ティー Nguyen Phuoc Thi(阮福蒔)。諡号は翼宗英皇帝。ティエウチ(紹治)帝の第2子で1848年即位した。
 しかしその前年,フランス軍はトゥーラン(現,ダナン)を砲撃し,58年にはフランス・スペイン軍がトゥーランを占領,59年にはサイゴンが落とされ,62年のサイゴン条約では南部3省が奪われ,66年には全南部が失われた。さらに,73年のガルニエ事件,82年のリビエール事件と,その治世の大部分はフランスとの交戦と屈服に終始した。
 一方,国内では1854年以降20年にわたって水匪がソンコイ川(紅河)デルタ一帯を荒らしまわり,また1849年以降,山地は中国人匪賊に占領されたままだった。そのほか少数民族の反乱も激しく,ベトナム全土は荒廃をきわめた。
 こうした内憂外患にもかかわらず,トゥドゥック帝の時代は,《大南会典事例》《大南一統志》等の政府編纂物をはじめ,カオ・バ・クアット(高伯当),グエン・ディン・ティエウ(阮廷鷺)ら多くの詩人,文人を輩出したベトナム・漢文化の最盛期であった。  桜井 由躬雄

(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

ここは、ティンキエム島(Tinh Khiem Island)。

かつて皇帝が小動物の狩猟場にしていたところのようだ。

池の周囲を、道が続いている。


遠くには、ボート乗り場が見える。
(観光客が乗るための場所ではない。)

遠くに見えるのはスンキエム殿。

かつて皇帝たちが愛妾たちとその円柱の間に鎮座し、詩を作って朗唱していたという。

水中に杭を打ちつけて作られたこの殿は、1986年に再建されたもののようだ。

これは、キエムクン門。


宮殿の入り口だ。

中には、展示物が飾られていた。


右手後方にあったミンキエムの間(Minh Khiem Chamber)はもともと劇場として使うために作られたようだったが、そこはベトナム衣装の写真サービスコーナーと化していた・・。

そして、外に出て、周囲の散策へ。

道を散歩する。

やがて、本殿が見えてきた。


この奥にあった大きな大きな石は20トンもあって、500km北のタインホア地域から運ぶのに4年の歳月を要したらしい。

ここに嗣徳帝が埋葬されている・・・ と思いきや、ここには埋葬されていないようだ。 その埋葬場所は誰も知らないらしい。

というのも、沢山の財宝と共に埋葬をした関係上、盗掘を恐れて、その場所を誰にも知られないようにする為に召し使い200人の首を切るという(行き過ぎた)方法が取られたからだそうだ。

そして、奥まで散策した後、嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)を後にしました。

フエ(Hue)からダナン(DaNang)方面

嗣徳帝廟(Tomb of Tu Duc, トゥドック帝廟)を出て、ダナン(DaNang)方面へと向かう。

帝廟の周辺で見かけたこの景色。


道端に、線香(?)が干してある。

そして、細い道を通り、ハイウェイ(1号線)へと向かう。

途中、舗装されていたり、されていなかったりといった、ベトナムの田舎道をずっと通っていった。

これが本当(?)のベトナムの道なのかもしれないと思った。 右の写真は綺麗に整備されているところ。 この先、荒れた道が続いていた。

そして、ハイウェイ(1号線)に戻る。


うってかわって、快適な道だ。

快適な道を、進んで行く。

遠くを見ると、サッカー遊びをしている集団が。

綺麗な道。

駅がある。


ベトナム鉄道の駅だ。

途中、何度か電車に抜かされていった。

フエからダナン、そしてホイアンへと向けて進んでいくが、一向に辿り着かない。 どうも、体が鈍っているのかな・・・ という気になってきた。 なかなか前に進まない気がするし。


途中、10時頃にいきなりおなかが空いてきた。 何故だろう・・・ と思ったら、日本時刻の12時だから、おなかの中がそのように動いているらしい。 麺の食べ物を一つ食べたが、どうも量が少ない。 そして、更にもう1つ何か食べようと思い、11時頃にもう一度違うお店に立ち寄った。

私は、先日食べたフォーが記憶に残っていて、それを食べたかったのだが、フォーがなかったので仕方なく、ご飯とおかずのセットを頼んだ。 この時、自転車旅行者が珍しいのか、大勢の人に囲まれてしまった。 そんでもって、注文して、沢山食べる私。

周囲の人たちには食べ方を教わったりした。 どうやら、タイと同じで、ご飯に汁物をかけて食べるようだ。 それとあわせておかずも食べる。おかずは、何やら、中に赤い輪切りが浮いている不思議な透明なたれにつけて食べるようだ。(いくつも見たので、定番のようだ。)

その時、目の前にいた一人の女の子がたれをくれた。 そして、それにつけるんだよ、と教えてくれた。 周囲の人たちは私の方をじろじろ見ている。 私は気にせず食べたのだが、どうしてもちょっと気になるので、周囲の人たちの様子を伺いながら食べていた。 そして、ふと気づいたのだが、この女の子がずっと私の方を見ているようなのだ。 私は、その女の子だけではなく周囲の大人たちにもジェスチャーや片言の言葉で会話をしつつ、ご飯を食べていた。 私が変な食べ方をすると、その女の子は面白くて笑ったりしていた。

そして、ご飯を食べ終わった時、ふと、後ろから老人が話し掛けてきた。 Do you like "ガ" Vietnam? 私は意味がわからなかった。 「ガ」ってなんじゃ? と思い、意味が分からないと伝え、お金を払って外に出た。 すると、その女の子が近くで「どこから来たの?」と聞くから、「ジャパンだ」と答えた。

その女の子はしばらく近くで私の準備を見ていた後、どこかへと歩き始めた。 私も、出発して先に進み始めた。

と・・・・、出発して数十分くらい経った時、ふと、ひょっとして”ガ”とは”ガール”のことか? と、いきなり頭に浮かんできた。 それにしては文法がおかしいなあ・・・と思っていたら、その更に数十分後には、”いや、the のことか? 彼女を指していたのか?”と、急にひらめいた。

日本人はアジアに来るともてるというが、前にタイへと行った時もそうだったが、その事実を実感する。 でも、たとえ据え膳(今回はそこまででもないが)であったとしても、食べるわけにはいかないんだよなあ、と、つくづく思ってしまう。 特にベトナム人は、本気なのか詐欺なのか、まだいまいち区別がつかない。 彼女自身は本気であったとしても、周囲の大人は彼女を利用することは明白(と今は思うことが出来る)なので、ベトナム人と仲良くなるのはしばらく考えた方がいいと私は思った。

そんなこんなで、いきなりの面白い体験をしてしまったが、足はずっと動き続け、次の目的地に向け、走り続けていた。

人の良い自転車屋さんとの出会い

そして、快適な道をどんどんと進んで行く。

この先、いくつかの峠があった。


だが、どれもそれほど高い峠でもなかった。

湾の横を、進んで行く。

湾の海岸線を横目に、進んで行く。

まっすぐな、この道。

遥かに広がる景色。

遠くの山々まで、透き通って見える。

この先、ちょっとした峠があるようだ。

峠をクリア。


日本の峠に比べれば、何と楽ちんなことか・・・。

海岸線のこの道を、ずっと走って行く。

ここで、自転車屋に立ち寄ってみた。 潤滑油が置いていないかと思ったからだ。すると、売ってはいないが、つけてくれるという。だが、何か様子がおかしい。 どうも、フレームの色塗りと勘違いされているようだ! 危うくペンキのようなスプレーをされるところだった・・・。

そして、油をつけてもらった。

油は、とても調子が良かった。 今までが嘘みたいに快適になった。 その自転車屋さんのおやじさんには、2000ドンのお礼をした。 最初はお金いらないような態度(恐らく)を取っていた、人の良さそうなおやじさんだったが、払わないのも何なのでいくらか聞いてみたのだ。 おやじさんは、しばらく拍子抜けしたような顔をしていたが、何度も聞くうちに、やがてワンダラーと答えてきた。 だが、その言い方も、”まあ、もらえるのならば・・・”といった態度だ。

このおやじさんには共感を覚えたが、いくらなんでも1ドルあげ過ぎだと思ったので、私が電卓で1000ドン、これで良いか? と聞いてみた。すると、何か勘違いしたのか良いと答え、それに応じて私が2000ドン渡すと ん? という素振りを見せるおやじさんだった。 だが、おやじさんが再度電卓を覗き込むと1000ドンだったので ああー と大笑いすることに。 周囲に集まっていた子供たちも、その様子を見ていて”わははははー”と笑っていた。 値段交渉にしても、嫌らしくない。人の良いおじさんだ。

 私はそれを見ていて、1000ドンは少ないかな? と思って2000ドンに打ち直し、それでよい? と聞き、2000ドンを渡すことに。 だが、意思疎通が不十分だったのか、おやじさんが1000ドンのおつりを渡そうとしてきたので、私は”いらない”とジェスチャーをした。 両者ともに”OK”となり、そして、その場を離れることに。

なかなか良い経験だった。 このような人の良い人たちに巡り合えるとは。

この、ちょっとした経験が物語っていることは、”ベトナム人は、誰でもぼったくろうとしている訳ではない。 なんとなくそんなものかと思って値段交渉しているだけの人もいるのだ。”と。

この経験で、私の中のベトナム人好感度はアップした。 それでもまだ負が大きいのだが。

そして、再度、小さな峠へ。


見違えるほど快適だ。

ホーチミンまで1022kmの標識。

峠からの景色。


低い峠だ。

峠を越え、向こう側へ。

遠くまで沼地が広がっている。

山々が、そして木々が、豊かに連なっている。

ちょっとした川。


向こうの橋は、電車の為の橋のようだ。

再度、小さな峠から。


これまた良い景色だ・・・。

再度、海岸線に入る。

そして、いよいよフエ(Hue)とダナン(DaNang)間における最大の峠、ハイヴァン峠(Hai Van Pass)へと向かう。

ハイヴァン峠(Hai Van Pass)、そしてダナン(HaNang)

いよいよフエ(Hue)とダナン(DaNang)間にあるハイウェイ(1号線)における最大の峠、ハイヴァン峠(Hai Van Pass)に差し掛かる。

ここは、ベトナム北部と南部の気候の境目になっているという。

とは言っても、峠は496mしかないのだが。

今、その峠の下にトンネルを掘っていて、2000年から4年の計画というからもう出来ているかと思いきや、まだ建設中だったので峠を登ることに。

途中に人家もほとんどないようなので、もう忘れ去られる峠になるのかもしれない。
工事中のトンネルへと続く道

峠を登って行く。


途中、踏み切りがあり、丁度電車に差し掛かってしまった。

どうやら、遮断機は手動のようだ・・・。

いよいよ、電車がやって来た。


が・・・。 客車がない?

って、後ろを見ると、電車に張り付いている人々が!


ベトナム人はたくましいなあ・・・ と思う瞬間。

峠への道からの景色は、とても素晴らしかった。


波が海岸線に打ち込み、その行っては戻る姿が、私をほのぼのとさせた。

湾の中を覗き見る。

そして、峠の道から進行方向を見ると、それはそれで別世界だった。


この山、この森の中、峠の道を進んで行く。

道は、自転車が走るような路肩が十分ではなかったので、後ろからクラクション(ミラーがないのでカーブでは必ずクラクションを鳴らしてくる)が来る度に気をつけて登って行った。

峠に行く途中、熱中病なのか何なのか、頭がもうろうとする事が何度かあった。 頭だけが妙に暑くて、頭がぼおっとする。 頭に水をかけると少し回復するが、水がかわくとすぐに元に戻ってしまう。 自動車が横に居るときに急に気を失ったりしないよう、多めに休みを取り、水も十分に補給しつつ登っていった。

後から思うに、どうやら、日本の寒い気候から熱帯のベトナムに来た事による、体温調整の不調だったようだ。

山の中、この道を、進んで行く。


左には海岸、右には山だ。

そして、何やら建物が目の前に見えてきた。

峠は軍事拠点だったようなので、あそこが軍事拠点であり、峠なのだと直感する。

そして、建物の近くへ。

そこは、やはり頂上だった。


広がる景色。

この道を登って来た。

峠にある軍事拠点。

今はもう使われていないようで、荒れ果てている。

ロンリープラネットによると、この峠は、頂上でバスが必ず休憩を取るので乗客はその間、しつこい商売人をかわすのに一苦労するらしい。

実際、峠に近づくとすぐに商売人が私の方に飛んできた。

そして、絵葉書を買わないかとか食べ物を買わないかとか聞いてくる。 さすがに私も交渉に多少は慣れてきたので、ことごとく拒否した。 ただ、フランスパンを1000ドン、冷たい水1.5リットルを6,000ドンで買い物をした。 買い物をする際も、パンを2つ売りつけようとしたり、高い値段で売ろうとしたりもしてきたが、この時は難なく交渉することができた。

フランスパンをかじって水を飲むと、ようやく疲れが回復してきた。 ふう・・・。

交渉が終わり、パンを食べ終わって、そろそろ出発かな、と思った頃に、遠くの方の親父が、峠の先をジェスチャーで示しながら「GO!GG!」とか言ってきた。 これが、この親父の本性のようだ。 商売終わったらさっさと出て行け、邪魔だ、というわけだ。

さすがに3日目だけあってベトナム人の商売根性に慣れてきていた為、特に気を悪くすることもなかった。元々ここの商売人に対してそのように接していたから、ということもある。

そして、峠を下る。

峠の向こう側の景色。


快適なダウンヒルだ。

夕焼け。


もうこんな時間か・・・。

峠を下り、やがて、平らな道となった。

このあたりで、段々と空は暗くなっていった。 この時点で、ホイアン行きは完全にあきらめ、ダナン泊が決定した。

峠を下ってからはとても快適な道になり、とても快適に進むことが出来た。 これですよ、これ。 タイで味わった快適な感覚。 どうやら、グリスが乾いていたのか何なのか、本来の調子を発揮していなかったようです。

ダナン(DaNang)まで14kmの看板。

遠くに見える夕焼け。

そのまま、快適に飛ばし、明かりのついたハイウェイをしばらく走った。 ハイウェイを走る分には夜でも明かりはいらなかった。

そして、ダナン近くになり、ハイウェイを外れると急に、舗装されていない道になった。 おいおい。 まじですか・・・。 幹線道路ではないのかな、ここは、とも思ったりしたが確かめる術も無い。

道は暗いし、今回持ってきた明るいライトがなかったら、他のバイクと協調して走ることがかなり難しかったかもしれない。 そんなこんなで、未舗装の道を抜け、やがて、ダナン近くまで来て、舗装された道となった。

そして、ようやくダナン(DaNang)へと到着した。


川のほとりまで走ってくると、この川の景色は、ベトナムとは思えないほど綺麗だった。

川沿いの道も、洒落た感じでよく整備されている。

ダナンでは、まず、宿を取りに行った。 まず、ロンリープラネットで評価の高い”ゲスト・ハウス34”に行ったが、満室だった。 すぐ横にあるソン・ハン・ホテル(SONG HAN HOTEL)に行ったら、16ドルでシングルが開いていたのでそこに決めた。

この宿にもマッサージルームがついており、恐らくは如何わしいサービス付きなのだろうと予想される。 この宿の前には売春婦は立っていなかった。 ここベトナムでは多くの児童売春が行われていると言うが、どこにでもいるという訳ではないようだ。 先日の宿はたまたまだったのだろうか?


そして、宿に着いた頃から、急に頭が熱っぽくなってきた。

どうしたのだろう? と思いつつ、この先のルートは大きな病院があるかわからないので、ここ、ダナンで行っておきたいと思った。 運良く、ここダナンには24時間開いている病院(病院C)があるようなので、カウンターの人に聞いて、行ってみることに。

倒れる前に行こうと思ったが、少し食べないとふらふらだと思ったのでフォーを食べた。 ここの味はフエでの思い出ほどではないけれども、そこそこだった。

そして、いよいよ病院へ。 言葉が全く通じないので、ジェスチャーと”旅の会話本”を使って話をする。 これがなかったらやばかった・・・。

そして、診察結果はと言うと、アレルギーを起こしていただけで病気ではないらしい。 血の検査も行ったが、マラリア等の確認もされたのかどうか、会話力がなくて聞き出せなかった。 胸に薄赤い斑点が出来ていたのだが、それがアレルギーによるもの、とのことだ。

そして、薬を出して貰った。 病院では紙だけ発行してもらい、実際に買うのは薬局で、ということのようだ。 医療と薬販売が分かれているシステムは、日本と同じだなあ、と思った。

私はどこに行けば良いのか分からなかったが、薬をもらいに行くとき、看護婦さんが1人付いて来てくれた。 こういう親切を受けると、ベトナムに対する好感度もアップする。

 病院横の薬局に入り、薬をもらっていると、薬局の人が私と看護婦の人をきょろきょろと交互に顔を見て来た。 どうやら、恋人か何なのか、と勘ぐっているようだ・・・。 ここベトナムではこういうことが何度かあった。

そうして薬を買い、実際にその場で1回分を教えてもらいながら飲んだ。 そして、看護婦さんにもお礼を言い、ようやく帰途についた。


ふう・・・。 ようやく帰り道。 屋台はほとんど閉まっていて、インターネットショップも閉まっていた。 10時なのにもうほとんどのお店が閉まっている。 私はおとなしく部屋に帰り、そして、睡眠に入った・・・。

ホイアン散策

2004-12-27

ダナンからホイアン

今日は、朝少しダルくて10時近くまで寝込んでしまった。

起きた時は随分と調子が回復したかに見えたが、支度をしてフロントに出ると、又もや少しだるくなってきた。 だが、そんな体調ではあっても、寝込むほどでもなかったので、いそいそと出発をする。

出発をし、どうしようかと考える。

とりあえず、市街地を出たい。 そして、ハイウェイか大通りに出たいと思ったが、どうも、道がごちゃごちゃしていて分かり辛い。

途中、居住地に入り込んでしまったりして、見事、はまりそうになっていた。

こんな細かい道を走る時はコンパスが重要なのだが、私は今回、持ってくるのを忘れてしまっていた。 そんな時、いろいろ置いていそうな雑貨屋さんをふと見かけたのでそこに入り、見事、一発でコンパスを入手することが出来た。運がいい。 12,000ドン。81円くらいか。

そして、今通っている道が大体の方角としては合っていることを確認した後、そのまましばらく走った。

結果、ようやく広い道に出ることが出来た。


この広い道になった頃、 ちょうど
「ダナン<->ホイアン」のバスが通りかかり、ホイアン方向の確信を深めることが出来た。

本当は、ミーソン遺跡に行ってからホイアンに行こうと思っていたのだが、いきなり道に迷いそうになってしまった事もあり、とりあえずホイアンへと行って、明日のツアーでミーソン遺跡には行こうと考え始めた。

ホイアンまでは、先日の道とはうってかわり、とても快適な道。 順調に走ることができる。 ほとんど上り下りのない、快適な道だ。

その道に入り少し進んだところで、食事屋があったのでフォー(麺)を食べる。 フエで食べた時ほどのインパクトはないが、十分においしい。 そして、その少し先にインターネットショップがいくつも並んでいるところがあったので立ち寄ることに。30分くらいメールやチャットをした後、再度出発する。

その後は、少し小さな道になった。

少し不安になるが、コンパスがあるので大体は大丈夫だろうと考えることができた。

細い道を、進んで行く。

他の道と交差を繰り返しながら、ホイアンへと進んで行く。


分岐があっても、方角的には大体一緒なので、さほど心配することはなかった。

やがて、雰囲気が変わって来た。

広々とした道。

ずっと続く、道。

途中、お祝い? か何かのバイクの集団とすれ違った。

バイクの集団がゆっくりゆっくりと進んでおり、何やらを囲んでいる。


これは一体???


よくわからないまま、バイクの集団を追い越し、ホイアンへと向かった。

ホイアン

そして、いよいよホイアンに到着した。


17~19世紀にかけて栄えたこの町は、早期の西洋貿易商に”フェイフォ”として知られていたらしい。
ホイアンの看板。

ホイアンは、旧市街が世界遺産に登録されているというところで、日本からも修復支援が行われているらしい。


当時は、日本にとっても重要な寄航港だったようで、日本人がいた面影も見ることが出来る。

街中は、なかなかよく整備されている感じだ。

町の中心部に近づくにつれ、観光客が段々増えてきた。

そして、ホイアンの街中をぐるりとした後、とある一つのホテルに泊まることにしました。 ここはロンリープラネットにすら載っていない宿ですが、申し分なかった。 ファンのみの部屋で8ドル、エアコン付で10ドルだ。 少しだけ見劣りする点はあるものの、先日の16ドルの部屋や先々日の20ドルの部屋と大差ない作りになっている。

ここで、明日のミーソンツアーを予約する。 ホテルはどこでも予約できるというが、本当にその通りのようだ。2ドルで往復のツアーを申し込んだ。8時に出発して1時に帰ってくるようだ。 ガイドブックには2時帰りとあったので、そのくらいまで見ておいた方が良いということなのだろうか? とも少し思ったりした。

そして、荷物を置き、一度シャワーを浴びてから旧市街の散策へ。

屋根付き”日本橋”。


日本っぽくない橋ではあるが・・・。
屋根付き”日本橋”

日本橋の向こうは、アート通りとなっていた。


絵画などが飾ってあるアート・ギャラリーがたくさんだ。

そして、日本橋まで戻り、川沿いに散策をする。

川の上に、水に浮かぶレストランがいくつかある。

街中の通りは、どこも落ち着いている。

旧市街を歩いてまず思ったのが、何と言っても”日本人がいる”ということ。

ただ、カップルがそれほど多くなく、日本人女性は欧米人連れであることが多く、男性は一人の場合もそれなりにあるようだ。

大体の見た人数で言うと、カップル:シングル女性:欧米人連れ女性:一人の男性:不明な団体客 = 10:1:4:2:4 くらいだろうか? 日本人女性の一部は欧米人に食べられちゃっているのかな? と思わざるを得ない状況。

実際、こちらに来て、アジア人女性と欧米人男性という組み合わせに対する欧米側から見た視点がよくわかってきたので、アジア人女性と欧米人男性という組み合わせだけで、欧米人男性が一時の快楽の為にアジア人女性を連れまわす、というイメージが思い浮かんできてしまうのだ。

なので、日本の女性と欧米人男性のカップルを見ると、ついつい「ああ、食べられちゃった。」と心で思ってしまう私がいる。 もしかしたら、逆もしかりで、一人で歩いている日本の男性は「また女買いに来たのか。」と思われているのかもしれないけれども。

数少ない日本の女性のシングルは妙にぶすっとした顔で歩いていたので、彼氏と喧嘩したのか、或いは私を見て「この女買いの屑め」と思っているのかもしれない。 私の方をちらりとみたあの表情からはそのくらいの予測しかできないけれども。

川を挟んで向こう側へと渡る橋。


川の向こう側にも、レストランがいくつか見える。

そして、街中を更に散策。

街中で、ふとフォーを食べてみたら、なんと5,000ドンだった。私がいつも10,000ドンで食べていたのは、地方価格なのか何なのか。 ホイアンは競争が激しいようなので、その影響かな?

そして、更に川沿いの散策をする。

観光船が、川に浮かんでいるのが見える。


そうこうしていると、「船に乗らないか?」との勧誘も多々あった。

そんな中、川沿いを、ぼちぼちと歩いて行く。

ホイアン散策

川沿いを歩いてゆくと、何やらマーケットらしきものが。

段々、にぎやかになって行く。

この小さな通路の先が、マーケットのようだ。

マーケットの中は、予想通り、小売店がたくさん。

鳥が籠に入れられて売られている。


鳥インフルエンザは大丈夫・・・ かな?

マーケットの中を、歩いてゆく。

のんびりと昼寝をしている、鳥を売っているおばさん。

市場は、物を売っている人がたくさんいたけれども、食べ物の数ではタイより遥かに少なかった。 タイは食道楽だったので、そのくらいを期待している私には少し物足りない。 食事もそこそこおいしいが、噂に聞いていたほどはおいしくないので、ちょっと微妙。

賑やかな中を抜けると、正面に、何やら古そうな建物が。

ふと、明るい道へと出た。


欧米人旅行者もたくさんいる。

のんびりと、歩いて行く。

住民と、観光客とが入り混じっている。

フルーツの売店。

おいしそうな食べ物・・・。

ここで、タイに行った時に好んで食べていた、”玉が赤くてとげとげが緑で柔らかい果物”が売っていたので即座に購入した。 これこれ。 これぞ南国・・・ と私の中で思える食べ物です。

白くてぷにゅぷにゅしていて、甘くもないがあっさりとしたこの味付け。 癖になります。

観光客がいっぱい。

ふと、ひとつの遺跡に入ってみる。

そこには、独特の庭作りが。

奥の建物へと、入ってゆく。

古びた、雰囲気のある建物だ。

鳳凰? の陶器。

お寺? とでも言えばいいのかな。

そして、そこを出て、違う遺跡に。

ホイアンの街中では、少しばかりの日本語が通じた。 さすがは観光地。 世界遺産好きの日本人なことはある。

日本人が来て修復したという建物の2階から。

眺めが良い~。

こうして、いくつかの施設を見た後、通りかかったレストランに入った。

夕食は、明日に向けて少し体力を付けようと思ってビーフステーキを食べた。 食べている途中、絵葉書売りの少年が来た。 噂では物乞いの人も来るらしいが、物乞いは出現しなかった。 ステーキは少し薄めだったが、オレンジジュースが絞りたてだったり、りんごジュースは日本で飲む味とは少し違ったけれどもおいしくて、とても満足。 これで53,000ドン。356円くらい。 安すぎ・・・。

ただ、会計の際、ウェイターに ”桁が違う” と言われて10倍取られそうになった。 こんなにもしっかりしているレストランなのにボッタクリをして来るとは、さすがはベトナムだ・・・・。

10倍請求してくるウェイターに対し、会計を確認し、札束の桁を確認し、レシートの挟まった板を片手に”バシバシ!” と叩いてから強く差出し、”受け取れ!” という仕草をしたところ、ウェイターは ”にやにや” とした顔つきをしながらそれを受け取った。 気持ち悪い・・・・。 なんて気持ち悪いウェイターなんだ。 まあ、ベトナムではこのくらい慣れっこだけれども。

その後、量が少し足りなかったので更に屋台でフォー(麺)を食べる。 味はそこそこかな。 そして、ようやく宿へと戻ってきた。 ちょうど時間も6時を過ぎていた。

ホイアン見物に割と時間がかかったが、時間的には丁度良い感じだった。


夜、ふと散歩に出てインターネットカフェに再度寄り、その後、ちょっとした川岸のレストランで食事をした。 ココナッツミルクのジュースとWhite Roseの上級版(名前覚えていない)を食べたが、どうも口に合わなかった。

そのお店の看板娘はひっきりなしに客寄せをしていたが、その合間合間に英語で私と話をした。 途中、その子は日本語も片言ながら話したりして、ここに来る日本人観光客はやはり多いのだなと実感する。

ただ、最後、やはりというか何と言うか、21,000ドン(143円, 1.4ドル程度)に対して "21ダラー(USドル)”と言ってきた。(苦笑) さすがに慣れてきた私は定額を渡して納得させることができた。 まさかこんなに話したのにもかかわらずぼったくってくるとは・・・ と思ってしまった。 良心がないようにも見えないし。 やはり、日本人とは感覚が違うようだ。 社交辞令と思うしかないのかな・・・。

そして、宿に戻り、睡眠に入った。 今夜は良く眠れそうだ。

ミーソン(MySon)遺跡、タムキー(TamKy)

2004-12-28

ミーソン(MySon)遺跡

今日は、目覚めはそこそこだった。 先日のような気だるさもかなり消えている。 支度をして、ツアーの前に朝食を取りに出かけて行く。

朝食はどこで食べようかと思ったが、先日食べた日本橋近くのお店に入ることにしました。 オムレツとガーリックトーストとオレンジジュースで39,000ドンだ。 今回は、私の顔を覚えていたのか何なのか、「桁が違う」とは言ってこなかったが、お釣りを1,000ドンだけ後で渡すという巧妙な手に出た。 微妙な詐欺だ・・・。

宿に戻り、チェックアウトを済ませてから宿の前でツアーを待つことに。 すると、一人のオートバイ乗りが来て、こっちだと言う。 まさかと思ったが、いきなりオートバイに乗せられ、ツアーの集合場所まで連れて行かれた。 オートバイの後ろ乗りは相手任せになってしまうのでちょっと怖いものだ。 でも、きちんと集合場所に着く事ができ、ツアーに参加することができた。

ふと見ると、早朝ツアーもやっているようなので、こちらに参加すれば良かったと少し後悔する。 ロンリープラネットには昼間のツアーしか書かれていなかったが、早朝ツアーも少人数グループで行っていると書いてあった。

ミーソン遺跡までは、バスで約1時間の道のりだ。 バスもそれなりに良いバスで、冷房も効いている。 予定では1時に帰ってくるとのことだったが、混んでいるので予定が遅れて1時半に帰ることになることを伝えられた。 ロンリープラネットには2時帰りと書いてあったので、遅れることをあらかじめ含めてあるのかもしれない。 このあたりは、業者の言い分そのままではないというロンリープラネットの編集方針が現れているような気がする。

私は最初、ミーソン遺跡まではかなり迷いそうだと勝手に思い込んでいたが、どうも、看板もそれなりに立っているし、自転車で来ても大丈夫だったかもしれない、と思った。

このツアー参加者の日本人男女比率は、男シングル:女シングル:欧米人男と日本女性:カップル(熟年) = 2:1:0:4 だったので、先日街中で見た欧米人男と日本女性の組み合わせの比率の多さが際立って見える。 先日のこともあり、いろいろと想像できてしまうが、想像の範囲を出ない。

そんなこんなで、ミーソン遺跡に到着した。

この橋を渡り、向こう側へ。

橋を渡った後、遺跡の近くまで2kmほどをジープかバンで移動。

その後、散策となった。

ミーソン遺跡の看板。

この小屋で休憩。


さて、これから散策だ。

皆で、ずらずらと歩いて行く。

良い天気だ。

ふと、何やら音楽が聞こえて来た。

どうも、この周辺の民族の踊りを行っているようだ。

なるほど、皆、見入っている。

女性と男性と、軽やかな女性と力強い男性の踊り。

ぐるぐる、ぐるぐるとリズミカルに踊る。

くるりくるり、踊っていた。

そして、踊りも終わり、いよいよ遺跡へ。

私は、はっきり言ってミーソン遺跡には期待していなかったのだが、近づいてみて、これは凄いと思い始めた。

確かに損傷は激しいし、ブロックの間から草が生えていて今にも森に飲み込まれそうだし、団体で来たので人がちょっと多い状況かもしれないけれども、それでも、この遺跡は見事だ。

見事な遺跡。

古ぼけた遺跡ではあるが、修復作業も着々と行われているようだ。

見事な遺跡。

何やら、宗教的な祭壇のようなものも。

遺跡群の数々。

宗教的な彫り物が、壁一面に見える。

仏像らしきものが、壁一面にある。

遺跡のうちのいくつかは、内部が展示場になっていた。

意味ありげな壁(?)

ライオン? のようにも見える飾り物。

これまた、ライオンのような、象のような飾り物だ。

首が剥ぎ取られた仏像(恐らく)

これまた立派。


手がいくつもある。

置物の横に、さり気なく砲弾が置いてある・・・。

ふと見上げてみると、壁がずらり。

両側を、壁に囲まれている。

地面にも、このような彫刻入りの置物が多く置いてある。

これは、アメリカ軍との戦闘により破壊された遺跡。

ここも、アメリカ軍との戦闘において破壊された遺跡だろうか。

ここは、被害のなかった遺跡。

そして、元々、ミーソン遺跡の中でも最大の大きさのあった遺跡が、これ。


今は、土台しか残されていない。
最も大きかった遺跡が破壊された跡

このミーソン遺跡は、アメリカ軍との戦闘においてベトナム側がこの遺跡の中に入って戦ったこともあるらしい。 そして、最も大きかった遺跡はアメリカ軍の爆撃においてもびくともしなかった為、アメリカ軍の特殊部隊が降下して木っ端微塵に破壊したらしい。

その結果、今はこのような無残な姿となってしまったようだ。

土台も、今にも崩れそうだ。

ここが、元々は遺跡の内部に位置したようだ。


祭壇らしきものが見える。

祭壇から左右を眺めると、破壊された遺跡が草木に埋もれかけているのが見える。

祭壇から下を眺める。



とても、遠くまで眺めることが出来る・・・。

草木に埋もれかけている遺跡。

破壊され、草木に埋もれかけている遺跡。

そして、それらの破壊された遺跡の間を抜け、最終目的地へと向かう。

ここが、最終目的地。

ちょっとづつ、修復作業を行っている。

日本でミーソン遺跡の情報を集めた時、しょぼい写真しか見当たらなかったのでその程度かと思っていたのだが、実際来てみたら、(修復もしているようだが)ここはとても壮観なる遺跡だった。

タムキー(TamKy)

ミーソン遺跡を出て、ホイアンへと同じバスで戻って行く。 途中、ボートで町まで帰るオプションを付けた人が降りて行くと、残りはほんの少しになった。 どうやら、かなりの人が船で町まで帰るようだ。

その頃になると少しうとうとしてきて、こっくりこっくりと居眠りしていると、いつの間にかホイアンへと辿り着いていた。


そして、その足で宿に戻って荷物を取ってこようと思った時、目の前に旅行代理店の電車時刻表があったので、つい見入ってしまった。 聞くに、私がもしかしたら乗りたいと考えていた1/3の電車は既に売り切れていると言う。(ここにある分は、というニュアンスにも聞こえたが定かではない。) ついでなので、ニャチャンからサイゴン(ホーチミン)までの航空券状況も聞いてみると、39ドルで取れるという。 計算していたより遥かに安い。 ロンプラにあった630,000ドンよりも安い、610,000ドン近く(詳細は忘れ)で入手することが出来た。 手数料を余分に取られた雰囲気もない。 ここホイアンは旅行代理店の競争が激しいとロンプラに書いてあったので、その影響かな? とにかく、これで安心して残りの旅程を楽しむことが出来る。

予定では、今日は少し南へ下った”タムキー(TamKy)”で宿泊し、次の日からは100km~120kmほどを走り、1/1にニャチャンに到着。その後2泊して飛行機で帰る、という予定が見えてきた。 ニャチャンでは1日取って、ボートツアーにでも参加してみたい。


そして、もう3時にも近づいたが、一路、タムキー(TamKy)に向かって走り始めた。 途中、分岐路を通り過ぎてしまい、あやうくダナンに向かってしまうところだったが、バイクでツアー勧誘(苦笑)して来た人との会話の中により、方向を間違っていることに気づくことができた。 運がいい。

少し戻り、恐らくこれであろうという道を進み、ようやく1号線(いわゆるハイウェイ)に辿り着くことができた。

ここまで来れば、ほとんど道に迷うことはない。

1号線を、快適に進んで行く。

ただ、もうすぐ夕暮れだ。

暗くなってきた。


そう言えば、海外のナイトランは初めてだな・・・。

薄暗い雰囲気に。

いよいよ、暗くなってきた。

今まで走ってきた1号線はどこもきちんと整備されており、舗装もそれなりにしっかりしていたのだが、今日のルートは未舗装の場所がそれなりにあったり、舗装されていても道の脇の方が砂で埋まっていたりすることが多々あった。

でも、10kmも走ればやがて、いわゆる快適な道となり、多少は未舗装の区間もあるがせいぜい50mか100m程度で再度舗装の道を走ることができた。

道の脇の距離表示を見ると、タムキー(TamKy)まで15kmで、クアンガイ(QuangNgai)まで44km、という表示がそれぞれあり、割とクアンガイ(QuangNgai)は近いのかな? とも思ったが、もう暗くなってきたので、夜の走行は避ける為にタムキー(TamKy)で一泊をすることにしました。

この町は、ロンリープラネットにもほんの少しの記述しかなく、そこには「宿はこの1件しかないので、ホイアンかダナンに泊まった方が得策だろう」とも書いてある。 少し不安だったが、そのような田舎の町はそれはそれで体験してみる価値があると思い、行ってみました。

街中は、ここが中心地? と悩むような簡素な作りをしており、通り過ぎてしまったのか、或いはまだ到達していないのか迷ってしまった。 でも、ふと目の前に2つのホテルの看板が見えてきたので、その手前の方を訪ねてみると、なんと140,000ドン(940円)で泊まる事が出来た。 しかもエアコン付き。 お湯ももちろん出る。 申し分ない。

シャワーを浴び、食事に出かけ、その後、インターネットカフェに立ち寄った。 すると、なんと、いきなり町中が停電となった。 噂には聞いていたが、これがアジアの停電か・・・ と思う。 日本に暮らしていると停電なんて本当に珍しいので、妙に新鮮だった。

インターネットは使い始めたばかりなので、主人もお金はいらない、と言ってくれた。

ぽつぽつと皆が帰り始め、私も、暗闇の中を歩いて行く。 でも、特に危険という感じでもない。 良い感じの田舎町だ。 先ほどの宿でも英語が通じなかったし、この町は好きになれそうだ。

街中を、宿の方へと向かってぶらぶらと歩き、宿に近づいた・・・ と思ったら、ふと、いきなり町中に電気が復活した。 私は、元のインターネットショップまで戻るのも何なので、町の逆側にまで行ってみることにしました。

進んで行くと、十字路がある左手奥にマーケットが見えるところまで来た。 どうやら、このあたりが町の中心部らしい。 随分と落ち着いた中心部だ・・・。 その周囲には、見たところ3つか4つのホテルがあった。 ロンリープラネットに書いてあるように「1つしかない」ということはないようだ。

そのホテルを過ぎた先に、こぢんまりとしたインターネットショップを見かけたので、今度こそと入ってみた。 ベトナムでネットを使った感じとしては、割と速度が出ているということに気付かされる。 日本までもさほど遅くないし、マイクロソフトのページからGlobal IMEという「英語版Windowsで日本語を使う為の道具」をダウンロードして来るのも、さほど苦労なく行うことが出来る。 フロッピーを持ち運ぶ必要があまり感じられないくらいだ。 実際、今回私はフロッピーを持ち歩いていない。 だめだったらそれはそれでいいと思っているからだ。

そして、ネットショップを出て、そしては宿へ。

帰る途中、フルーツジュースを飲んだりした。 おいしい。 これで3,000ドン(20円)だ。癖になる。

明日は、120~130kmほど走る事になりそうだ。 さて。明日はどのような日になるかな。

タムキー(Tam Ky)の町、クアンガイ(Quang Ngai) 、サフィン(Sa Huynh)

2004-12-29

タムキー(Tam Ky)の町

今朝は、予定通り6時頃に起きた。今日は約130kmほど走らないといけないので、予定通りに出発をするつもりだ。

 ただ、朝外で何やら音がしていたのだが、外に出てみるとなんと雨模様であった。 完全なる雨という訳でもなく、振ったり止んだりを繰り返しているようだ。

それだけではなく、朝、ふと気が付くとタイヤの空気が抜けていて、パンクの修理もする必要があった。 パンクの修理をしていると、ホテルの人が手伝ってくれたりして、とても助かった。 田舎町の人情味が伝わってきて良い感じだった。

修理を終えた後、ようやく走り始めた。

この町を離れる前にちょっと市場を見ていこうと思い、ふと立ち寄った。


これが、大正解だった。

何が正解だったかというと、今まで行った場所では見なかった、食材だらけの市場がそこに広がっていたからだ。

 ホイアンの市場のようにお土産物の山が連なっている訳でもなく、食材がずらりと並んだこの市場。 そして、そこにいる人たち。

このような姿を見て、ベトナムの本来の姿はもしかしたらこういうところにあるのかもしれないと思った。

観光地でぼったくられているだけではない、他人を思いやって支えあう人々、その姿をここに見た気がする。

このタムキー(Tam Ky)の町は特に観光する場所もなく、電車は通っていれども、実際、観光客もほとんど立ち寄らないような町のようだが、それだからこそ、このような姿を見ることができたと思える。

 そして、私が”自転車”で旅に出る理由、その一つとしては、このような姿を見ることが出来る、という点がある。 わざわざ電車で立ち寄るのも手間がかかり、又、電車が通っていない所こそ素朴さが残っていると感じるからだ。

そして、今日の移動を行わなくては今後の旅程に響くため、予定通りのペースで進んで行った。

タムキー(Tam Ky)からクアンガイ(Quang Ngai)

雨が少し降り、そしては晴れ、服が乾き始め、そして又雨が降り服が濡れ、といったことを繰り返した。

ここは、タムキー(Tam Ky)の町から少し進んだところ。

船が、すいすいー と水の上を進んでゆく。

道を、進んで行く。

晴れたり。

降ったり。

途中、電車? とすれ違ったりした。

客車はわりとガラガラだ。

雨模様の中、進んでゆく。

また晴れた。

田園地帯が広がっている。

手植えの田んぼ。

手作りの家が遠くに見える。

道は、続く。

ふと、川を渡った向こうに町が見える。

橋を、渡って行く。

クアンガイ(Quang Ngai)、そして南下

途中、クアンガイ(Quang Ngai)の町で、ロンリープラネットにお勧めと書いてある料理、COM GA を食べてみた。 黄色いチャーハンの上に薄切りの鶏肉が乗っている。 これは確かに美味しかった。

そして、再度雨の中を移動します。 途中、インターネットでもして休憩しようと思ったが、体が濡れていては悪いので乾いている時に入ろうと考えていたら、いつの間にかインターネットショップを見かけなくなってしまった。 仕方が無いのでそのまま進む。

朝からきちんと走っているせいか、お昼には旅程のかなりの部分を走っていた。

さすが、平地ばかりの道は進みも違う。

ずっと続く平坦な平野。

道も真っ直ぐだ。

単調かもしれない、だが、少しずつ変わってゆく景色を楽しむ。

遠くに海が見える。

ちょっとした丘を越えてゆく。

牛さんたちが放し飼いになっている。

湾の姿。

ふとすると、この2人が話しかけてきて、しばらく一緒に走った。

バイクも、のんびり ぶろろろろーん と走っている。

サフィン(Sa Huynh)

雨に当たり続けたので少し頭が重くなったが、帽子に溜まった水(ほんの少し)を払い除けたら気分が良くなった。 そのくらいで変わるものなのかな? とか思ってしまう。

そして、いよいよ今日の目的地、サフィン(Sa Huynh)に近づき、ようやく到着した。

ここは、ロンリープラネットに「宿が一つしかないが、海岸の横にあり立地条件は良い」と書かれてあったことと、次の大きな町(クイニョン(Qui Nhon))まで100kmちょっとの距離であることから今日の宿泊地をここに決めていたのだ。
サフィン(Sa Huynh)の宿

明日以降はクイニョン(Qui Nhon)、トゥイホア(Tuy Hoa)、ニャチャン(Nha Trang)と辿る予定だ。

宿は、エアコン付で150,000ドン(1,007円)だ。ロンリープラネットの情報(ファンのみ8$, ダブルファン10$, エアコン付15$)より遥かに安い。 シーズンオフだからだろうか。

そして、シャワーを浴びてから海岸線へ。


この海岸線が、これまた美しかった。



空はまだ雨模様だし、地面にゴミはあるが、そんなことより、この広い砂浜で、遠くの遠くまで誰もいない、その空間に投げ出されたこの感覚。

私は海育ちだったがしばらく海から離れており、しばらくぶりにこうやって砂浜と対峙した時、心の中に”すうっ”と込み入るものがあった。 そして、こんなにも素晴らしいものだったのか、と観念を新たにしました。

海岸を眺めていると、ふと、視界が鮮明になってきた。


先ほどまで、ぼんやりとした波の動きと、なんとなくの空の色、なんとなくの遥かなる海岸線しか見ていなかったのが、ある瞬間からより鮮明に、目の前に現実のものとして迫ってきたのだ。

足元を見れば、多くの砂のでこぼこ、行き交う足跡。 前を見れば波のしぶき。 左右を見れば海岸線の続く姿。


その全てが、現実のものとして今目の前にある、そのことがはっきりと見えてきたのだ。

これが、これが今回の旅の目的だったのだとも思えるこの体験。

 旅をしていても、そうそう何度も巡り合うことのないこの瞬間。 それが、今、起こったのだ。

その後、波のしぶきを見ながらしばらく海岸を散歩した。


水は濁っているが、そんなことは関係なかった。

寄せては、また引く、この波。

美しい波。

目の前の景色が明らかになり、そして、先ほどとは違った一歩を踏み出していた。

散歩を終え、ふと、遠く離れた食堂に入った。 そこで、麺ものを一つ食べた。 あんまりおいしくない。 口に合わないのか何なのか。 ベトナム料理は”どれも”おいしいと聞いていたのが、必ずしも美味しくないと私は思った。

その後、ちょっとしたカフェでココナッツジュースを飲む。 そこの人に、インターネットは近くにあるかどうか聞いたら、近くにはないという。


そして、宿に戻る方向へと歩き始める。 途中、パンか何かが売っていたら買おうかと思ったが、どうも売っていなかった。 そこで、端の店まで行った後、少し戻ったところで食事を取る事にしました。

そこで食べたのは魚料理。 主人といろいろ話をして、説明を受けた上で料理を決めた。

魚料理を、最初はそのまま箸で食べていたが、どうも、食べ方が違うという。 白くて少し透明な薄い円盤のようなものを水に浸し、それを半分に折り、その上に野菜を乗せ、魚の身を乗せ、丸めた後にたれを付けながら食べるらしい。

最初このたれがきつかったが、慣れるうちにそんなでもなくなった。 慣れというものはこんなにも早く起こるものだろうか? ともふと思った。 ただ単に、たれが薄くなっていただけかもしれない。


その後、とても面白いことが起こった。 食事を決める時などに少し話していたお嬢さん(18歳くらい?)が、私の持っていた「旅の指差し会話帳」を持ち、以下のように聞いてきたのだ。

お嬢さん「恋人はいますか?」
私「いいえ」
お嬢さん「貴方が好きです。」
お嬢さん「一目惚れです。」
お嬢さん「家まで送っていきます」

この時点で私は大笑いしてしまった。 悪い意味ではない。 男女間で起こる”くすくす”とした面白い笑いだ。

そして、このお嬢さんは更に、横のもう一人を指差して次の言葉を指差した。

お嬢さん「二股をかければいい。」

これはもう、笑わなくてどうしましょう、という展開です。


ベトナムの人のことはよく分からないので、本気かどうか全く分からない。 実際のところ顔は好みではあったが、言葉が通じないから会話が成り立たないし、お互いのことが分からないのに遠距離で恋人ってのもどうなのでしょう、と思う。

事例としては、二股三股をかけて日本人からお金を吸い取っているベトナム人の話を多く聞くので、ついつい、どこまで本気なのかな? と思ってしまうのだ。 本当に本当に本気であるならばそれなりに考えようがあるが、ベトナム人のことははっきり言ってよく分からないのだ。

そして、私は会計を済ませ、あの子に手を差し出してグッバイをしてから歩き始めた。 あの子が付いて来るかな? と思ったが付いて来なかった。 さすがにこちらから積極的になる要因はまだなかったので、それ以上を誘うことはなかった。

それにしても、ベトナム女性に積極的な行動をされたのはこの数日間で2回目である。 やはり、噂通り日本人はアジアでもてるのかなあ? と思った。

逆に私は、旅をすればするほど「日本で日本人女性と暮らしたい」と思う気持ちが強くなって行くのではあるが。

サフィン(Sa Huynh) から南下、クイニョン(Qui Nhon)

2004-12-30

サフィン(Sa Huynh) から南下

今日も6時頃起きて、順調に出発した。 先日のご飯やの前を通りかかったが、先日の子の姿は見えなかった。 止まってご飯を食べていこうかとも考えたが、優柔不断というのも何だし、なんとなく体が動いて通り過ぎてしまった。

夕べ泊まった場所。

右には砂浜。


昨日とは違った景色が、そこにあるような気がした。

今日の目的地はクイニョン(Qui Nhon)だ。約110kmほどである。

程良い距離。

ただ、途中には特に見るべきものもないので、移動と人間観察の日々となりそうだ。

朝ご飯を2度、一度はフォー(麺)、二度目はフランスパン(具入り)とフォー(麺)を食べ、どんどんと走った。

延々と、走り続ける。

今日も空模様が怪しかったが、先日ほどの雨にはならなかった。 明日以降はもっと晴れてくれると良いが。

今日のルートはなだらかな坂が登ったり降りたりとゆるやかに進む道だ。 平野に流れている川をいくつも突っ切る形で、広い平野の中を駆け抜けて行く。

川を横切ってゆく。

立派な橋がかかっている。

橋の上から。

クイニョン(Qui Nhon)

途中、路線バスの方にも目を向ける余裕が出てきたが、どうやら、3分の1くらいの確率でバスの作業員が「乗るか?」と聞いてきていたようだ。 もちろん乗らないが、乗らない理由としては2つあり、1つは「自転車に乗りに来たのだから」で、2つ目は「自転車が傷つきそうだから」である。

自転車はバスの屋根の上に載せており、なんと、そこにはバイクまでもが載せられている。 どのようにしてバイクをバスの屋根の上に載せるのか、ただただ驚愕するばかりだ。

田園地帯を抜けてゆく。

延々と。

まっすぐな道。

牛を飼っている人がいる。


子供が面倒を見ているようだ。

どうやら、ロンリープラネットによるとクイニョン(Qui Nhon)までの間には大きな町はなく、クイニョン(Qui Nhon)それ自体も、観光客からすれば取り立てて見るものもない町のようだ。

そのクイニョン(Qui Nhon)に向けて、ずっと走ってゆく。

又もや田園地帯。

広い田んぼ。


ふと見ると、手植えをしている人たちの姿も見えた。

途中、休憩のためココナッツのジュースを飲んでみたが、微妙な味だった。 その横で売っていたパン(フランスパン。大体これ。)を一緒に食べたが、パンはどこでも安定したおいしさがあり、安心できる。

具がなければ1,000ドン(7円)であり、それでパン1つ(20cm x 7cm x 7cm)なのだから驚愕だ。 私が(東京自宅の)近所で知っているパン屋さんのどこよりも美味しい。 日本のフランスパンはただ固いだけだが、こちらのフランスパンは中がもちもちしており、”パンだけで”食べることが出来るのだ。 この美味しさ、これだけを食べにベトナムまで来ても良いと思うくらいだ。 ただ、中身の具は私的には微妙だが・・・。

ベトナムのご飯は美味しいと聞かされていたが、私の中でのヒットはこのフランスパンのみである。

そんなこんなで、更に走る。

雲行きは怪しいが、このままの状態が続きそうだ。

やがて、ようやくクイニョン(Qui Nhon)に到着した。


この町も、中程度の素朴な町だった。

市場を横切ると、そこには食材やら雑貨などが所狭しと並べられている。

 大きな大きな建物の中、全てが市場のようだ。 観光者向けではない市場としては、私が今回見た中では最大となる。 これは意外。

後でこの中をぐるりぐるりと回った。

ごちゃごちゃした街中。


とりあえず宿を探さないと・・・。

それにしても、人々が、たくましく生きているものだとつくづく思う。

そして、荷物を持ったままでは歩くのも苦労する為、宿を最初に決めようと思いロンリープラネットを出す。 すると、町の中心部近くにある宿は限られているということがわかったので、当初は予定していなかった、バックパッカー向けの安宿、”バーバラの宿”に決めることにしました。 これでUS6ドル。安い。 エアコンなしのファンのみ。 でも十分だ。 部屋の中は多少くたびれているが。 後、シャワーのお湯が少しぬるいのがきついか。

そして、荷物を置き、市場へと食べ物を探しに出かけていった。


市場では、面白い人たちがたくさんいた。 まず最初の人は、初めに5,000ドンと言って来たので私がいらないと言って立ち去ろうとしたら3,000ドンまで下げ、払う段階になったら笑いながら5,000ドンと言ってくる人だった。 表情も半分冗談であるとわかるので、私も笑いながら3,000ドンのみを払ったが、多少は強引に”ぐいっと”手を差し出して交渉成立させた。 なかなか面白い人だ。

後、もち玉と生クリームなどの入ったぜんざいもどきの食べ物も、甘くてとても美味しかった。 これはヒット。 フランスパンと同列に並べても良いくらい。 後、生ジュースも安くて美味しくて、買う場所にもよるけれども概ねヒット。 後日で虫歯になったのはおまけだが・・・。(苦笑)

デザート系統と飲み物系統でのヒットはそのようなところだ。


ただ、デザートを食べている時、初めて横に物乞いがやって来た。 最初、何だろう? と思っていたのだが、やがて手を差し出してきたので物乞いだと判明した。 お店の人は”しっし”とやっていた。 さすがにこの状況で何かをあげるわけにはいかない・・・。

市場をぐるりと回り、2周ほどしてから市場を離れた。 途中、市場の周囲にあったお店でパンケーキを2つと、オレンジを2つ買った。

そして、海岸線の散歩へ。

海岸線には、船がずらりと並んでいた。

日本のように、波止場に船の先を結び付けてはいないようで、湾内にまちまちに船が止まっていた。このような景色は、日本でもあるようでいてなかなか見られないような、そんな景色だったように思う。(私の田舎の港町を基準にしています。)
翌日の朝の海岸の風景

そして、宿に戻り、今日を終えることにしました。 明日の目的地はトゥイホア(Tuy Hoa)だ。

クイニョン(Qui Nhon)から1号線を南下、パンクと泥棒、トゥイホア(Tuy Hoa)

2004-12-31

クイニョン(Qui Nhon)を発つ

今朝は、明け方から凄い雨の音が外から聞こえていた。 案の定、外を見てみると曇り空。 でも、このあたりでは明け方と夕方に雨が集中するらしい。 実際、今日は、走っている間も度々雨が降る程度だった。

支度を素早く済ませ、走り出す。

朝の海岸線。

船がたくさん泊まっている。

砂浜。 そしては船。


日本の港と違い、砂浜の向こう側に多くの船が泊まっている。

多くの船が。

そして、街中を抜けてゆく。

地図を見ると海岸線を走る道があるらしいので、そちらの方へと行ってみる。


 だが、あっさり行き止まりに。 どの道がそれかも良く分からないので、近くのご飯屋さんで朝食を食べる。 やはりフランスパンがおいしい。

食事を終え、恐らくこちらだろうという方向にどんどんと走り出す。

方角的にはそう間違っていない筈だ。

開けたところに出る。

先日は、この湖?湾? の向こう側を通って来たようだ。

(少し後にそれが判明する。)

山を見つつ、進んでゆく。

この後、ちょっとした郊外の町を抜けるところがあったのだが、そこで、私とは逆車線(左端)を走っていたバイクが、私の左手10mの地点でいきなり横転した。

横目で見ると、どうやら赤ん坊を乗せていたらしく、母親がパニックになっている。 下の水溜りでスリップしたようだが、この国には危険が一杯だとつくづく思った。 戻ろうかとも思ったが、既に大勢の人が詰め掛けており、転んだ時の速度もあまり出ていなかったのと、どうやら赤ん坊は投げ出されてはいなかったようなので、少し考えた末、そのまま進むことにしました。 転んだ時に落ちなかったことを見ると、赤ん坊は籠? に固定されていたように見える。

私があの場所で出来ることと言えば、お金をあげることくらいだった。 それがどれほどのことになるのだろう、と思いつつ、しばらく走っていた。

1号線と合流

その後、しばらく道なりに進んでいった。


すると、何やら見慣れた景色が現れ、1号線と合流した。

町から走ってきた道は町に来た時と違った道だったので、”もしかしたらこれが海岸線の道かもしれない” と思っていたのだが、どうやら1号線(ハイウェイ)からの分岐路が楕円形のように2つに分かれていただけだったようだ。

クイニョン(Qui Nhon)は1号線から10kmほど東に入ったところにあるのだが、その分岐店へと戻ってきたということのようだ。 最初は海岸線を行くつもりだったのだが、ここまで来てしまったのだからと、そのまま1号線で南下することにしました。

そして、ハイウェイを走ってゆく。

その先は、地図ではそれっぽく書かれていなかったのだが、ちょっとした峠だった。

ただ、それほど高い峠でもなく、200mか300mか、その程度の峠だったように思う。

峠の道はそれなりに広いので、特に車に気を使うことなく通ることができた。

峠からの景色。

やがては頂上へ。

峠。

峠に町の境目があるのは、ある程度は万国共通のようだ。

そして、快適な下りへ。

これまた快適・・・。

景色も良い。


遠くの海が見える。

山の中を、駆け抜けてゆく。

1号線を南下

道は、ずっと続いてゆく。

段々と平らになってゆく。

緩やかな下り。

そして、峠を抜けた。

そこから先は、地図でも見るとおり、ほとんど平らのようだ。


実際、かなり快適に進んで行く。

周囲の景色。

田んぼが、広がっている。

遠くまで。

山々と、田んぼと。

まっすぐな道。

快適に進んで行く。

山々を見つつ。

ずっと、進んでゆく。

よく整備された道だ。

ぐぐっとカーブ。

海岸を横目で見つつ。

ずっと、進んでゆく。

パンクと泥棒

途中、11時頃に食事を取り、食事が終わってみると後ろのタイヤの空気が抜けていた。 あらら・・・ と思ったが、ふと前を見ると目の前に自転車兼バイク屋がある。 そういえば、「ベトナムはパンクを違った方法で治すので時間がかかるが確実」とロンリープラネットに書いてあったのだが、その方法とベトナム人の手腕を見てみたいと思ったので入ってみることにしました。 パンクの修理は5,000ドン(34円)とロンリープラネットに書いてあったが、実際その値段だった。

手さばきを見ていると、確かにこなれている。 私もそのこなれた感覚を少し真似したいと思った。 彼の手さばきは、なんとなく”感覚的なもの”の参考になった。 後、私の自転車のタイヤはフレンチバルブを使っているのだが、最初、彼が修理を始めた時は”あ、フレンチバブルに空気を入れられるかな?”と思っていたのだが、ふと取り出した空気入れをそのまま挿して空気を入れだしたのを見て、”あ、ここはフランス領だったんだ・・・。タイヤもフレンチバブルが普及しているのか。”と気が付いた。

周囲の自転車を見てみると、確かにフレンチバブルだ。 この国の歴史を感じてしまった。

そして、修理を済ませ、私は走り出した。



しばらく走り、緩やかな坂をいくつか越えて行く。

 快適な道だ・・・。 と思ったら、30分ほど過ぎた後、再度後ろのタイヤの空気が抜け始めた。

あらら・・・? と思ってみてみたら、先ほど穴が開いた場所のタイヤの外側に、ガラスの破片が刺さっている。 彼は、タイヤの内側は確認したのだが外側は確認していなかったことを思い出す。

仕方が無いので、修理をすることに。

道の脇に自転車を止め、タイヤの修理をしていると、いつの間にか人が集まってきた・・・・。


困った困った。 人が集まると、泥棒が必ず出るのだ。 来ないでほしかった。 食べ物屋からも離れているから大丈夫だと思ったが、甘かったようだ。

案の定、一人の老人が「この空気入れで空気を入れていいか?」と聞いてきた。 私は、ニュアンスと共に「そのタイヤに入れたら破裂するよ」と言って使わせなかった。 老人も、特に無理矢理使おうとはしなかったのでとりあえずほおっておいた。 ただ、前バッグを勝手に開けられないよう、随時目を見張らせていた。

その後、タイヤの修理が終わり、空気を入れる段階になった。 空気を入れようとすると、先ほどの老人が手伝ってくれる。 そして、空気を入れ終わった後、「私のにも入れていいか」と言うので仕方なく「いい」と言ったら、そろりそろりと、それを自転車の籠に置こうとするじゃないですか。

まったく、と思い、Noを言うと、その老人は「え?」というニュアンスをする。 気付かなければ持っていったところだっただろう。 全く、油断できない。

その間も、前バッグには常に気を付ける必要があった。 これだから、パンク修理中に人に紛れるのは嫌なのだ。

最終的には何も盗まれなかったが、勝因が3つあり、1つは「あらかじめ必要なものだけ外に出して、バッグの蓋はきちんと閉じておいたこと。」、もう1つは「修理中、自転車とその装備に常に目を向けていたこと。」、もう1つは「外に出している道具を一箇所にまとめ、取られないよう目を見張ること」である。

疲れている時はかなり危なくなるが、今回は余裕があったのできちんと対処が出来た。 はっきり言って、空気入れを盗まれたらしゃれにならない。 高圧が入れられる空気入れなんてこちらで手に入る筈もないからだ。

最後、この老人にお礼として、先日おみやげ物やで買わされた、よくわからないお米のような食べ物をあげることにしました。 「ありがとう」のお礼半分、「これでも食べておとなしくしていなさい」のお礼が半分だ。

ようやく、その人ごみから離れ、自転車で走り出す。 念のため10mくらい走ってから一度立ち止まり、前バッグの主要荷物(カメラ、財布、電卓等)が盗まれていないことを確認した。

そして、再度、快適な道を走り始めた。

遠くまで見える丘。

学校帰りの人々と一緒に走ってゆく。

その先は、とても快適だった。

遠くに見える海岸。


段々と、海岸の色が綺麗になってきたような気がする。

峠を越え、南へ。

程よい、良い道を通ってゆく。

川を渡る。


それにしても、立派な橋がかかっているものだ・・・。

川の上から見た景色。

快適な道を。

ちょっとした丘からの景色。

丘を、抜けてゆく。

トゥイホア(Tuy Hoa)

ずっと、このようなまっすぐな道を走ってゆく。

路肩も広い。


申し分ない道だ。

多少の上り下りを繰り返し、どんどんと南下する。

ふと、左に列車が通りかかった。

さほどスピードを出す訳でもなく、のんびりと列車が進んでゆく。

列車が通り過ぎていった。


そして、道は更に続く。

そして、いよいよ今日の目的地、トゥイホア(Tuy Hoa)へ。

看板に従って道を曲がったら、このような中途半端な舗装路を通ることになった。


車の通りも多くないし、大丈夫かな???

どうも、建物の区分けだけがされている新興住宅地のようなところだ。


国道沿いの町と聞いていたのだが、ちょっと違う感じだ。

(とは言っても、結果としては国道沿いの町ではあったのだが。)

ようやく、町の姿が見えてきた。

しばらく走り、やがては十字路へ。

十字路で駅の方向を人に聞き、その方向へと曲がって直進する。

すると、運良く駅の前に出ることができた。

駅から見えた、協会の時計塔。

これは、ロンリープラネットで唯一説明のあるニャンチャム塔(Nhan Cham Tower)、であると思われる。
ニャンチャム塔(Nhan Cham Tower)

ロンリープラネットには、「ここには観光する場所も良いビーチもない。唯一見るべきものは町の南側に建つニャンチャム塔(Nhan Cham Tower)」と書いてあるが、その書き方のストレートさがこれまた良い!

そして、ホテルの姿を探すが、どこにも見当たらない・・・。 ガイドブックには「町の中心地」としか書いていないので、近くの人に聞き、どうやら線路を越えた国道沿いであることを知る。 ということは、先ほどの分岐路で曲がる必要はなかったのか・・・ と苦笑した。

言われた通りに曲がり、国道沿いをホテルを探して走った。 でも、見つかったのはガイドブックに記述のないホテルが1つだけ。 そこにとりあえず入ってみると、15万ドン(1007円)のようなのでここに決めた。

シャワーを浴びた後、街中へインターネットと食事に向かうことに。 私がインターネットに出かけようとすると、先ほど話をしていたカウンターのお姉さんが、インターネットショップまでバイクで送っていってくれると言う。 なんとまあ。 よくわからないがこういうこともあるものだと思い、連れて行ってもらった。

そして、インターネットを済ませ、駅の近くの屋台で食事を済ませた。 ここで食べた”ブン”は、今まで食べたそれのイメージを覆すほどおいしかった。 確かに、ベトナムには美味しい料理があるものだと思った。 ただし、常においしい訳ではない。

お店のはしごで、次は”ミエン(お米の麺のラーメン)”を食べた。これもそこそこ。 そして、最後はベトナム風お好み焼きを食べ、更にパンを買ってから宿に戻った。

宿は国道沿いで少し音がするが、許容範囲だ。

さあ、明日は最終目的地のニャチャン(Nha Trang)だ。ここから120km。さて、明日はどんな日になるかな。

今日までの私的ベトナム評価:(10段階)

都市部(ハノイのみ):1
田舎(幹線沿線のみ):3
人(全体):2
遺跡・世界遺産:6
景色:4
食べ物:5

総合(Total):3(人には勧められない)

今回ばかりは早く帰りたいかも・・・。後3日、がんばるぞ!

トゥイホア(Tuy Hoa) から南下、ニャチャン(Nha Trang)へ続く峠道、風の強い平野、ニャチャン(Nha Trang)到着

2005-01-01

トゥイホアから南下

今日は元旦。でも、ベトナムでは旧正月を盛大に祝うそうなので、太陽暦の正月は重要ではないらしい。

今日も朝から少し雨模様。嫌な一日になりそうだ。

支度をして、さて出発しようとしたら前輪の空気が抜けていることに気付いた。 その場で修理をする。 何とも、タイヤ修理の多い旅だ。(こういう時もある)

修理を済ませ、雨の中を走り始める。

遠くまで広がる景色。

まっすぐな道を、進んでゆく。

向こう側に、古い橋と周辺の集落が見える。

雨は、割と長く降り続いていて、30分後には止んだ。

ちょっとした丘に差し掛かる。

周囲には田んぼ。

再度、ちょっとした丘を抜けてゆく。

思いのほか高さがありそうな気がしてきた。

とは言っても、ベトナムの1号線で最大の峠は既に通っていたので、それほどの峠ではないということは予想できる。

緩やかな坂を、上ってゆく。


地図ではそれっぽくは書かれていなかったのだが、峠があっても不思議ではない場所だ。

そして、順調に走らせていると、ふと目の前に2人の自転車乗りがいることに気付いた。

今回の旅で初めて会った自転車乗りだ。 どうやら、ドイツ人の夫婦とのことだ。 ハッピーニューイヤーと話しかけて、巡航速度が合わない感じだったので私が先に行く事に。

次第に、本格的な峠になってゆく。

山々を見つつ。

峠道を、登ってゆく。

ニャチャン(Nha Trang)へ続く峠道

登っている途中、下の方を見ると先ほどのドイツ人夫妻が登っているのが見えた。
ドイツ人夫妻サイクリスト

やがては峠の頂上へ。


ゆっくりと登り、登りきる少し前の時点で、再度雨が降ってきた。

これは強い雨だ・・・・。 しかも、峠の上だからか、風が冷たい。

ふと、上ってきた方角を省みる。

ここからは下りだ。

まさかベトナムで寒さに震えることになろうとは・・・。 しばらく、峠の下りを寒さに耐えつつ進むこととなった。

海岸も見える、景色の良いルート。

下っている途中、バイクの人が横に並んで、何やら話し掛けてきた。 何を企んでいるのかは知らないが、どこから来たのかとか、どこへ行くのかとか聞いてくる。 必要以上には答えずにしばらく進み、ブレーキの調子が悪くなっているのに気付いた私は丁度良いタイミングだと思い、止まって修理をした。 その瞬間、バイクの人は先へと行ってしまった。

修理を済ませ、坂を再度下り始めた。 ゆっくりと下り、やがては最後という時に、後ろから先ほどのドイツ夫妻のうち夫の方が追いついて来た。 平坦な道となり、しばらくは一緒に行く事に。 どうやら、休みが4週間あって、ハノイからサイゴン(ホーチミン)まで走るのだと言う。 何とも羨ましい。

ドイツ人夫妻の後姿。

海岸線を見つつ、進んでゆく。

快適な道。

しばらく一緒に走り、向こうが何故かスローダウンしたので私は先に行く事に。

手信号で先に行っておくれと伝えてきたということもある。

そして、再度、一人で平坦な道を走って行く。

風の強い平野

なかなか風の強いところだ。

木々が横に向かって生えている。

まっすぐな道を。

山々を見つつ。

横風の中、進んでゆく。

次第に、風も止んできた。

少し走った先で、私は食事休憩を取ることに。 まだ朝ご飯を食べていなかったのだ。 そんなところを先ほどの夫妻が通り過ぎてゆく。 食事休憩の時、又しても子供と母親、近所の人に囲まれてしまった。 悪くはないが、近所から出てきた女性の目線が冷たいのが気にかかる。 思想的に何かあるのだろうかと勘ぐってしまう。

そして、食事を済ませ、走り出す。

なだらかな道。

そして、ここに来て次第に風向きが変わり、斜め後ろから風が吹くようになったので、とても順調に進むことができた。

草原地帯。

道は、まっすぐ続く。

ふと、横に線路があるのが見えた。


そして、後ろから電車の音が聞こえてきた。

そして、後ろからゆっくりと電車が通り過ぎていった。

のんびりと、電車が通り過ぎてゆく。

そして、更に進んでゆく。

ニャチャン(Nha Trang)到着

いくつかの小さな丘を越えてゆくと、次第に景色が変わり始めた。

段々と、水が綺麗になってゆくように感じる。


ニャチャンが近いことを感じる。

変わった建物。

丘の上から見える景色。

丘の上から見える、鉄道の路線。

次第に、南国の雰囲気へと変わってゆく。

道を、走ってゆく。

快適なルート。

そろそろ、ニャチャンだ。

標識を見ていると、どうやらニャチャン(Nha Trang)へショートカットする道と、大通りを通って回り道をする道とがあるようだ。 地図を見る限りは大回りが主体で書いてあったのだがショートカットをすれば近いようなので、そちらに行ってみることに。 その入り口は一見分かりづらかったが、距離標識にニャチャン(Nha Trang)と書いてあったので判別することができた。

そして、ちょっとした峠を越え、いよいよニャチャン(Nha Trang)へ。

ニャチャン(Nha Trang)

いよいよニャチャンだ。

交通が次第に多くなってゆく。

そして、中心部へと抜ける大きな橋を渡ろうとすると、ふと、右側に大きなチャム遺跡があることに気が付いた。 

「ポーナガール・チャム塔」というらしい。 早速、そこへ行ってみることに。
ポーナガール・チャム塔

入場料を払って中に入ろうとすると、いきなりはがき売りが来た。

そしてその後には物乞いが、「くれるのが当たり前だろう。よこせ。」という表情と手振りで威張っていた。 なんじゃこりゃ・・・ と思い、無視してポーナガール・チャム塔を見に行く。

ポーナガール・チャム塔は、立派だった。

先日のミーソン遺跡と同じような形式の遺跡である。

規模はそこそこであるが。

ミーソン遺跡より手入れがきちんとされているように感じる。

手入れのされている、立派なチャム塔。

中では仏像が飾られており、寄付も募っていたので少し(10万ドン(672円)ほど)あげたら、おみやげに花をもらってしまった。 こっちの価値で10万ドンは高かったのかも・・・。

チャム塔から見た、ニャチャン中心部へと続く橋。

いよいよ橋を渡り、中心部へ。

街中を、散策する。

海岸を見てみる。

季節がらか閑散としているが、なかなか良いビーチだ。

海岸線のルートを通ってゆく。

さてどのホテルにしましょう・・・ と思って最初に決めたところが、なんと取り壊し中で、隣の違う名前のホテルに変わってしまったのだと言う。 それなりに高そうだったので、再度うろついて探すことに。 ロンリープラネットを確認しつつ、ようやく決めたのがHAI YAN Hotelというところ。一泊25万ドン(1678円)で、三ツ星のホテルのようだ。 2泊する予定だし、最後には飛行機にも乗るので、少し良いところがいいと思ったのだ。 でも、日本円にしたら微々たるもの。 設備もなかなか良かった。

そして、街中を歩き、明日のボートツアーを探しに出かける。

ボートツアーは、割とあっさりと見つかった。

ロンリープラネットに書いてある代理店に行ったら、あっさりと見つかった。

ただ、同じツアーがその横と横の代理店でも売っており、ロンリープラネットに記述のある元締めが一番安かったのでそこにしました。

今回参加するツアーのルートマップ。

明日の心配はなくなったが、海水パンツが必要だと言うので、買いにいくことに。 ショッピングセンターにあるとのことなのでぶらぶらと歩き、人に聞いたりして、辿り着くことができた。 最初、海水パンツを買おうと思ったのだが、水泳をするようなものしかなかったので、短パンを買うことにしました。 それと、サンダルも購入した。短パンは約6万ドン(403円)、サンダルは12万ドン(805円)である。

同じビルで食料品も売っていたので、オレンジジュースと水を買っていこうと思った。 そして、レジに並ぶのですが、妙に人が詰めて並んでいる。 なんじゃなんじゃ・・・ と思っていたら、どうやら、割り込みをする人がいるらしい。 さすがはベトナム。日本じゃ有り得ない。 更に、私の目の前のレジで、レジの後ろに回りこんだ人に買い物かごが回り込んで手渡され、抜け道に買い物かごを置いてレジをさせるという人が目の前に現れた。 これは常識を逸している・・・ と思ったが、ベトナムだからしょうがない。 しばらくレジの人はそのかごを無視していたのだが、ようやく自分の番になったら、レジの人がその籠を10cmくらい手前に引き寄せるではないですか。 これは、私の番の前に割り込まれるということを意味している。 そんなことを許す筈もない私は、自分のかごで「ガツン!」と相手のかごをぶつけ、引き寄せたのと同じ10cmくらい押し戻し、自分のを先に処理させた。 状況によっては「ファックユー」とでも言ってあげようかと下品にも考えていたのだが、それをやらずに済んだ。 だが、なんとも後味が悪い。 相手は無視してレジが終わるまで突っ立っているのだから、何とも始末に悪い。

日本で同じような立場なのはヤクザだろうか。 日本のヤクザは義理と人情、人と人との繋がりを考えるが、こちらのマフィア(だろう、恐らく)は自分勝手で好きなことをしているだけだから始末に悪い。

このような最悪の状況を見てしまうと、フランスがベトナムを植民地にした結果と、日本が台湾という土地で行った植民地政策の良好な結果とを、どうしても比べてしまうのだ。

一概に植民地政策を悪としては何も見えず、植民地政策のもたらした良い面にも目を向けてこそそれぞれの国の状況が見えてくると思える今日この頃である。


買い物を済ませ、宿に戻る事にする。

宿に戻るまで、塗れた靴を履いている足元が気持ち悪かったが、一度宿に戻り、サンダルに着替えたら見違えて快適になった。

そして、宿の目の前にあるレストランに入り、魚料理を満喫する。 ここに来てようやくこの旅初めてのビール(サイゴンビール)を飲み、ひと段落付いたと、落ち着くことに。


そして、ようやく部屋に帰ってきて、鏡の自分を見ながら、今日一日の不快な出来事が自分の表情にどのように影響しているのかを観察してみた。 そして、深呼吸をして、表情を和らげようとした。

それにしても、この硬い顔を見るに、段々とベトナム人の”表情と口調のきつさ”に対しての耐性が切れてきたようだ。 段々と我慢比べレースみたいになってきた感がある。 いい訓練と言えば聞こえは良いが、旅に出てまで不快な気持ちを貯めたくはないものだ。

明日のボートツアーが思いやられる・・・。

ニャチャン(Nha Trang)のボートツアー、Mun島、Mot島、Tam島、そして帰国

2005-01-02

ニャチャンのボートツアー

今日は6時過ぎに目が覚め、すぐに朝食を食べに食堂へ行く。そこには、まさにベトナム風の料理が並んでいたのだが、どうにも食が進まず。 オレンジジュースも少し薄いし・・・。

食事を終えた後、ボートツアーの開始時刻まで1時間45分ほど時間が空いていたので、自転車を朝のうちに分解してしまおうと考えた。 そして、掃除をしながら1時間半かけて分解及び梱包し、準備を整えることができた。

自転車の準備が終わると、慌しく部屋に戻って今度はボートツアーの準備を。 先日買っておいた短パンに着替え、最小限の荷物を持って外に出かける。集合10分前に集まったのだが、さすがはベトナム時間がどこにでも有効らしく、担当の人は10分遅れでやって来た。

そして、バンに乗って、一路、港へ。

港は、人々でごった返していた。

案内人に船まで案内され、ようやく乗り込む。

だが、なかなか船が出発しない。 そんな時、違う船が隣から突っ込んできて、勢い良くぶつかるという事態が発生。(汗) さすがはベトナムだ・・・。

間が空いていたから突っ込んだのであろうが、そこまですることはないじゃないかと思う。 船を縛るロープはピンピンに張り詰めていて今にも切れるのではないかと思えるくらいギシギシ音を立てているし、なかなか船は出ないしで、ベトナム方式を初めから楽しませてもらいました。

そして、ようやく準備が整い、出発へ。 私たちの船はそれほど搭乗が遅くなかった筈なのに、多くの船は既に出発してしまい、後の順番での出発になってしまった。

それにしても、天気が良くなって良かったと思う。先日までの天気だったら最悪だった。

段々と天候が良くなっている感じで、時間が経つにつれ、雲が減って行くように感じる。

次第に晴れ渡る空。


そして、それに応じて海の色も変わってくる。

広い海を、どんどんと進んでゆく。

島を目指して、船は進んで行く。

ニャチャン・Mun島、Mot島

そんなこんなで、緩やかな船の旅を楽しみ、最初の目的地の島、Mun島にたどり着いた。

美しい海岸線。

ここでは、泳いで島へと渡ることができるようだ。


水が冷たいのではないかと少し考えたが、来たからには泳いでおかないとと思い、水に入ることに。


水慣らしも出来ない状況なので、仕方なく足から飛び込む私。

すると、確かに最初の一瞬は寒かった。 でも、少し泳いでいたら体が温まって気にならないくらいの感じになった。 私の田舎の基準で言うと、静岡の伊豆基準で、8月の終わりか9月の始めくらいの水の冷たさだった。

そして、島へと渡り、お昼寝を楽しむ。 それにしても、良い景色だ。 今まで感じたベトナムの悪い面全てが洗い流されて行くかのような、そんな良い景色だ。 遥かに広がる大空。 そして、岩肌、グリーンの海。 どこかの南の島ほどの透明度はないが、それでも十分と感じさせる、この海。

そんな海を十分に楽しみ、やがては船へと戻り、次の島、Mot島へと向かった。

周囲浮かんでいる他のボートツアーの船。

海岸線を見つつ、船は進んで行く。

船が2つ並んでいる。


この横に、私たちの船も並んだ。

船の上に立っている旗。

船から見える景色。

ここでは、昼食をまず食べた。

そして、盛り上げ役の人が歌を歌い、海の上で踊りながら皆を楽しませた。 船が4台くらい連なり、一つのステージを見ている。 私は、下の階が狭かったので、隣の船の屋根の上からぼんやりと眺めていた。

そんな時、ふと船の船首に目を向けると、地元の少年が無表情で皿洗いをしたり残飯整理をしているのが目に入った。 この表情、とても微妙だ・・・。 この少年が何を感じているのか全くわからないこの表情。 その表情と船尾に見える盛り上げ役の人の表情との比較をしてしまったら、少し神妙になって、私自身の盛り上がる気持ちがなくなってしまったような感じだ。 そんな状況をしばらく見物し、その後、ふと眠くなってお昼寝を始めた。

そしていつしか歌も終わり、皆が海へと入り始めた。

何だろう・・・ と思ったら、どうやら、海の中でワインを飲んでパイナップルを食べる、という遊びらしい。 

それにしても、お酒を飲んだら泳いではいけないと教わらなかったのだろうか・・・ とも考えてしまうが。 泳いでから飲むワインだけでなく、食事中にビールを飲んでいる人もいた訳だし。 浮き輪を必ず使わせるようなので、多少は安全面を考えているのかいないのか。

とりあえず体験してみるかと思い、少し気がかりではあるものの、私も水に飛び込んだ。 そして、ワインを飲んだら・・・ 何とも幸せな気持ちになってきた。 これは不思議だ。 ワインもおいしいし、パイナップルもこれまた美味しい。 ここまで美味しいワインを飲んだのはいつぶりだろうとすら思ってしまう。 銘柄の紙は(環境に考慮してか)外されていたので銘柄はわからなかったが、それにしても美味しかった。 銘柄を聞き忘れたのが心残りだ。

そして、ワインを終えると、やがてTam島へと移動を始めた。

ニャチャン・Tam島、そして帰国

ここは少し大きめのリゾート島のようで、入場料もしっかりと取る。 言い忘れていたが、最初の島で泳ぐには5000ドン、この島の入場料も5000ドンだ。

そして、時間もあまりないので、簡単に散策したが、これまた良い景色だった。

パラグライダーを楽しんでいる人もいる。

滞在時間が短く、慌しくTam島を離れた。そしては、最後の目的地Mieu島へと向かった。

ここでは何やら不思議な乗り物に乗ることができた。

これまた面白い・・・。

水が入ってこないように何で接着してあるのかも多少は気になる。 化学物質であるならば興味はないが、生活の知恵であるのならば聞いてみたい。 聞きそびれたが。

ちなみに、この乗り物に乗るには5000ドンである。 全てに料金が付けられている・・・。(苦笑)

どんぶらこ、どんぶらこと浮かんでいる私・・・。

ゆらゆらと。

現地の人が漕いだり、途中で私たちも体験したりして、この乗り物を後にしました。

面白い乗り物の周囲に浮かんでいた船。

そして、やがては港へと帰っていった。

なかなかに長い一日だった。 かなり疲れてしまったが、満足感も大きい。


明日は東京へ帰る日だ。 ホテルに戻り、空港までのタクシーを予約しようとしたら、18万ドン(1208円)ほどかかると言う。空港は町の南にあるのに何故かとカウンターの人に問い詰めたら、それは昔の空港で、1年前に遠くに移転したのだと言う。

私は一瞬、このカウンターの人すら疑ってしまった。 三ツ星ホテルのカウンターの人すらぼったくりに荷担しているのか! と最初は思ってしまった。 だが、どうやらそうではないらしい。(実際は明日分かるが。)

明日は6時にチェックアウトして、6時15分にホテルを出て、7時に空港着の予定だ。

そして、次の日。


朝の風景。


ニャチャンを後にする・・・。

今回の旅は、自転車の海外サイクリング経験にプラスになったように思える。 又、不思議な人々・文化を味わうことが出来て、これまた有意義だった。 ただ、アジアに疲れ始めましたので、次はヨーロッパ圏かどこかへ行きたいと思う。 それは又後ほどの話で。 今回の旅は、これで終わりである。

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