懸空寺(次の記事)

応県木塔

2015-04-23 記載
トピック:中国大同

今日はタクシーを4人で借り切って、バスでは行きにくいいくつかの観光地に向かう。

8時に出発する筈だったが、8時から運転手の子供を幼稚園に送ってくるので8時半から出発だと言う。 うーん。 初めから予想できただろうことなんだから、最初から8時半集合にすればいいのに。 ここのスタッフの女性と旦那さんが住み込みで働いているらしく、運転手もその旦那さん。 決めた時間くらいきっちり出発すべきだろう、と日本人感覚では思ってしまうが、ここではきっとこれが普通なのだろう。

インド人のように勝手に無連絡で遅れたり態度がふてぶてしいより100万倍上等なので、それほど不満でもないのであるが。

上海や北京のような都会を離れるごとに人々がだんだんといい加減になってきた気がする。
いい加減ならばいい加減でそれなりに対応するからいいのですが、同じ国であっても上海や北京とのギャップがあるので意識の切り替えに時間がかかる。

フレンドリーなのはいいところではあるけれども。


8時半を過ぎても出発せず、結局8時40分頃出発した。
8時出発と言うので7時50分から待っていたので、50分近く待たされたことになる。

まあ、そんなもんだな・・・。
慌てても仕方がない。


タクシーというか、普通の車だ。
助手席に乗ったが、シートベルトの装着が間違っていて、ベルトで「ねじれ」が生じてしまって、ベルトの体へのフィット感がイマイチだ。
なんだこれ。

日本車じゃあり得ない。
これはどうやら中国車のようだが、中国人はこういうの気にしないのかなあ?

胸から肩にかけて違和感ありまくり。



運転は丁寧だ。
インドのように車線関係なく突っ走ることもほとんどない。

そういう意味でも、中国の民度はインドの遙か上だ。
インド人は中国を同格と思っているだろうけど、そんなことは絶対にない。

どうも、インド人が「フラット化する世界」を書いたように自信過剰なところが利点でもあるし弱点でもあるような気がしてきた。

インド人が自信過剰に「フラット化する世界」とかを書いたが、
日本人は真面目であまり人を疑わないから、それに書いたことを真に受けてしまった、というだけのような気がしてきた。
世界はフラット化なんてしていない。

一番の主要因は、人の移動が起こらない「国家」という枠組みがあるから。
情報が行き交っても、言語は違うし、国境があるので人の移動は起こりにくい。

中国人とインド人が多少は交流するとしても完全に混ざり合うことはないし、インド人と日本人が多少は交流があっても完全に混ざり合うことはない。

上記の本は「情報化によって世界は同じになる」というが、人の住んでいる場所によって格差は残るし、住んでいる人は異なるから、それが同一化されることはない。

情報化社会は同一化を進めるかもしれないが、それは地域ごとに進む。

インドのバンガロールは、インド人は先進都市と思っているかもしれないが、中国の上海の足下にも及ばないし、あえて年数で差をつけるならば30年は違っている。 その格差はずっと残るので、最終的に同じになることはない。 あるとしたら、片方が寂れて片方が繁栄するのであれば逆転は起こるかもしれないが、それは同質化/同一化ではない。

まあ、インド人のことはいいや。ここは中国だ。

中国を見ていると、インドがどれほど駄目だったのかがよく見えてくる。

インドと中国を両方体験すると、インド人とは付き合わずに中国人や東南アジアと付き合う、というのも道理にかなっている気がする。 インド人と日本人は違いすぎるが、中国人は日本人と理解出来るところが多い。



そんなこんなで、
まずは応県木塔という、1000年くらい前の木造の5重の塔を見る。



目的ではなかったし、60元(1,170円)と高いので中には入らず外から眺める。
5重の塔なので外から見るだけで十分。



一緒に行った一人は、偽装の警察手帳を持っていて、入場料無料になっていた。 なにー!
更に、もう1人は偽装の学生証を持っていて、学生料金で入場していた。 これはたまに聞く。

あまり高くないだろうと思って学生証なんて考えていなかったが、これだけ高いとどこかで入手しておけば良かったなあ。 放送大学に入学しても、世界中の遺跡の入場料が割引きになったらそちらの方が安くつくかもしれない。 今までインドの遺跡ばかり行っていて、学生割引なんてなかったので「学生証はあまり使えないなあ」 という印象が強かったが、中国ではかなり使えたみたいだ。 失敗した。



懸空寺(次の記事)
トピック:中国大同